ベント・ヘーガー『バレエ・リュス』(1992年)表紙はフェルナン・レジェ『スケーティング・リンク』

バレエ・スエドワの主宰者ロルフ・ド・マレ

『遊戯』を踊るジャン・ボルラン/”Comoedia Illustre” 1920年11月20日号
バレエ・スエドワの唯一の振付家、男性プリンシパル、バレエ教師

 

◆ 1 ◆ バレエ・スエドワって?

バレエ・スエドワとは何でしょうか。

 

Ballet Suedoisというフランス語で、スウェーデン・バレエもしくはスウェーデンのバレエ団という普通名詞です。

バレエに詳しい方はあれ?似ていない?と思う存在があるかもしれませんね。

ディアギレフが主宰したバレエ・リュス(Ballets Russes)です。

ご推察の通り、バレエ・リュスに倣う形で名前を付けたのです。ではバレエ・リュスとも関係があるのでしょうか?

 

バレエ・スエドワを結成しようとマレが考えたのはバレエ・リュスを成功に導いた振付家ミハイル・フォーキンと1913年に会ったという縁はあります。(1911年からストックホルムに定期的に招かれていた彼は第一次世界大戦中、移住していたこともあります)。

大金持で芸術的なセンスを持つマレと出会い、交流するうちにバレエ団を結成してはどうかと持ち掛け、それが実現したのです。マレの恋人はジャン・ボルランと言う若いスウェーデンのストックホルム王立劇場のバレエ・ダンサーでした。彼のためにもそれは素晴らしいだろうと思ったマレはバレエ団を結成する決意をしました。

 

マレはまずパリに本拠地となる劇場としてシャンゼリゼ劇場を7年の契約で借り上げました。そして自らの居をパリ7区、サン・シモン通りに決め、本格的に活動の準備を始めました。まず恒久的に利用できる場を用意したという点においては従来のバレエ・カンパニーの運営イメージにのっとっているということができるでしょう。

まず、ジャン・ボルラン個人のリサイタルという形で3月に公演を行った後、1920年10月23日初めての公演(ドレス・リハーサル、今で言うゲネ・プロです)が行われました。

バレエ・リュスの初日がそうであったように、パリ中の芸術関係者並びに社交界のメンバーが勢ぞろいした豪華な夜となりました。評価はまちまちでしたが、話題になったことは確かですし、バレエ・リュスよりも新しいと夢中になる観客もいました。

今では考えられないのですが、当時は日本の一般紙にもバレエ・スエドワの上演は記事になっています。日本の西欧の芸術動向への関心は現在の比ではありませんでしたが、それを差し引いても関心の高さ、話題性がうかがえます。

バレエ・スエドワのメンバーはスウェーデン、ストックホルムと隣国デンマークの王室バレエ団から集められ、ディアギレフがそうであったように「盗んだ」と一部では報道されました。それは王室バレエ団のメンバーというのは基本的に付属バレエ団で教育を受け育った存在だったからでした。

彼らの活動は1925年まで続きました。

 

初演した作品はいくつかのダンス場面を集めた『ディヴェルティスマン』、かつてニジンスキーが初演したドビュッシー作曲による『遊戯』をジャンヌ・ランバンの衣裳で、スペインを舞台としたアルベニス作曲による『イベリア』、そしてスウェーデンのお祭りの夜をテーマにした『聖ヨハネの夜』で、振付の全ては解散までジャン・ボルランが手掛けました。当時、ジャンは27歳、マレ32歳でした。

その活動は唯一ディアギレフが本気でライバルと感じるほどでした。初演でニジンスキーがかつて振付けて上演が絶えていた『遊戯』がラインナップに入っていた点もディアギレフには対抗心を強く感じさせたことでしょうし、マレも意識したからこその演目だったでしょう。

それだけでなく、ディアギレフが受け入れられなかった映像や黒人文化、ジャズを積極的に取り入れた事も若手台頭と意識されたかもしれません。ディアギレフは当時48歳、マレとは一回り以上年配でした。ディアギレフは映像を信用しなかったため、自らのカンパニーの作品に取り入れるのは遅くまたただ1回1928年『オード』のオープニングだけでした。バレエ・スエドワでは1925年に『本日休演』の中でルネ・クレールの「幕間」が作品の一部として撮影、制作され上演されましたし、初めて舞台の上で着替えを行ったり、本格的なジャズをバレエにしたり、様々な「初」を行ったバレエ団でした。早ければ価値があるというわけではありませんが、新しい事を躊躇なく取り入れるのは感覚の若さもあったでしょう。

 

バレエ・スエドワを紹介するとき、「バレエ・リュス」が登場するのは、このカンパニーが基本的にバレエ・リュスなしには生まれない存在であったこと、そのため比較せずにその特徴や魅力を浮き彫りにすることができないからです。

ちなみに私がバレエ・スエドワに出会ったのはバレエ・リュスの研究が縁でした。大学3年、研究を始めて程なくバレエ・リュスのライバルとしてバレエ・スエドワとソワレ・ド・パリの名が挙がっていたのですが、当時は探してもまとまった資料は1970年にパリ・オペラ座で行われた展覧会の薄めのカタログと1990年に発行されたベント・ヘーガー著『バレエ・スエドワ』含めごく僅かでした。

今でも残念ながら日本語でまとまって読むことのできるバレエ・スエドワの本はありません。その魅力的な姿にここで出会っていただき、一人でも多くの方に魅力が伝えられましたら幸いです。

 

次回は5月9日の配信予定です。よろしくお願いいたします。