『Monsieur』の表紙

<美に囲まれて~2~>

◆ 2 ◆ 世界初の男性ファッション誌「Monsieur」

マレの仕事が多岐にわたっていたことはこちら紹介してきた通りですが、こんなことも?ということもしています。

『Monsieur』というのは世界初の男性ファッション雑誌ですが、これはマレが考え創刊したものでした。経営は変わりましたが、現在も「世界初の男性雑誌」というコピーと共に出版され続けています。

https://www.monsieur.fr/

 

現在、男性ファッション誌の存在を疑問に思う人はいないと思いますが当時、女性ファッション雑誌は数々ありましたが、男性用は存在していませんでした。1900年代のダンディーが流行った時代も雑誌が流行源ではなかったのです。

マレ自身がスウェーデンでの青年時代に「ダンディ」なファッションに身を包み、身近に多くのダンディな存在がいる環境で育っていました。そして、ファッションはなくてはならないものでもありましたから雑誌の創刊は極めて自然な事でしたが、それまでなかったという事を考えると男性のファッション観という点でも極めて現代的な感覚をマレがもっていたことが分かります。

雑誌は1920年創刊、バレエ・スエドワ結成の年です。

この雑誌ではもちろん、バレエ・スエドワは雑誌にしばしば取り上げられましたし、ジャン・ボルランもモデルとして紙面に登場しています。また、美しい男特集といった企画も行われました。

男性を「美しい」とあからさまに紹介するのもこの雑誌が始めた事でした。ゲイ雑誌ではありませんでしたが、そうしたテイストは明らかに入っており、また読者は両方をまたいでいました。

 

つまり、マレは舞台芸術の世界からだけではなく、ファッションという切り口からもバレエ・スエドワを紹介しようとしていました。当時、バレエは確かに「ファッショナブル」な存在でした。

ですが、それを自覚的に切り口として見せようとしたバレエ団はありませんでした。バレエ・リュスはそのように捉えられることを否定はしませんでしたが、自らファッションという切り口で紹介させる、という発想があったとは言えません。(もちろん、すでに有名だったクチュリエシャネルデザインの衣裳のバレエ『青列車』は疑いようもなくファッショナブルなものではありましたけれど)

自らのバレエ団とその活動をどうやって見せるか、伝えるかということを熱心に、今の私からみたらとても妥当な、ただ当時では新しい切り口で紹介したというマレの側面は重要なはずです。

今だからこそ、バレエやダンスをそこに関心が必ずしもない層にどうやって届けるかという事を多くの人が考えるようになりましたが、当時は固定の観客で回していけた時代です。そうした中で、自身の活躍をより広く、多彩な切り口から紹介したマレの新しさは彼のダンス観ともつながっています。

 

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12回、お読みいただき、ありがとうございました。

まだまだ彼の人生、バレエ・スエドワの個別の活動などご紹介したいことは尽きませんが、ひとまずこちらで連載は予定通り、終了します。

8月6日、ズームトークでお目にかかります。

ご参加お待ちしております。

『Monsieur』の表紙

1920年10月号の『Monsieur』の表紙。『ディヴァーシュ』を踊るジャン・ボルランの姿を舞台袖から見ているファッショナブルな男たちが描かれている。

マレとレジェ

『スケーティング・リンク』のイメージソースの取材のために、「労働者階級」のファッションに身を包んだフェルナン・レジェ(左)、ロルフ・ド・マレ(右)

1920年に雑誌に掲載されたイラスト

1920年に雑誌に掲載されたイラスト、バレエ・スエドワのスタージャン・ボルラン、バレエ・スエドワの名がはっきりと確認できる

ジャン・ボルラン

ジャン・ボルランは『Monsieur』に登場しただけではなく、パリ、デビューの1920年には演劇雑誌『LA RAMPE』(1915年創刊)のカバー・ガールならぬ、カバー・ボーイとして登場

マレ2歳

<美に囲まれて~1~>

◆ 1 ◆ マレの育った家は美術館に

 

ここまで様々な視線から見てきたロルフ・ド・マレですが、彼の育った環境についても少しご紹介したいと思います。

 

ハッリウィル家の三人姉妹の二女である母エレン、裕福な地主で貴族の父ヘンリック・ド・マレの息子として1888年に生まれました。皇帝を自宅に招いたほどの高位の貴族の長男として生まれた一人息子でした。

愛情にも環境にも恵まれて何不自由なく育ちました。しかし、母エレンはマレの家庭教師ジョニーと恋に落ちます。マレが11歳になって雇われたベルリンで美術史の博士号のために学んでいたスウェーデン人の学生、ジョアン・ルーズヴァルト(通称:ジョニー)が恋の相手でした。

 

対面を重んじる貴族の社会でしたし、こうしたことはそれほど珍しくなかったようで、そのうちあきらめて頭を冷やして戻って来ると皆静観していました。

たとえば少し時代はさかのぼりますが、『アンナ・カレーニナ』のアンナも人妻でありながらヴォロンスキー大佐と恋に落ちた時、少し経てば覚めるだろうと周囲は思っていた様子が描かれています。今の日本のような婚外恋愛、即アウトというような価値観ではなかったのです。

 

しかし、周囲の考えとは違って彼女は本気でした。

彼も別の女性との関係もあったものの、ドイツで博士号を取り、スウェーデンに戻ってからも関係が続きました。明らかに当時社会的地位は低かった彼を丸ごと愛した結果でした。また、彼も終生にわたって彼女の活動をサポートしています。

エレンは元々絵を描くのが好きだったのですが、その才能をジョニーとの結婚後開花させ、女流画家、彫刻家として活躍します。当時良家の子女が仕事をするという概念がない社会に生きていた女性としてはなかなか先進的な活動だったと言えるでしょう。

後に息子マレはA.I.D.(国際舞踊アーカイヴ)創設時に中庭に母エレンに依頼した浅浮彫を設置しています。

今の感覚からは分かりにくいかもしれませんが、父が軍人で家に居なかった時間も多く、また子供との関係が当時の貴族社会の常として近しいものでなかったこともあったでしょう、マレとジョニーの関係も終生に渡って極めて親密であり続けました。兄弟がいなかったマレのお兄さん的な存在になったとも言えます。

マレは喘息持ちでしばしば療養に出かけていたのも以前ご紹介した通りですが、その療養地もさすが貴族ならではのラインナップで、ダボス、サン・モリッツといった高級リゾート地です。これらの地で各国の裕福な人達が療養生活を送っていたわけです。(サン・モリッツはニジンスキーが人生最後の踊りを踊った事でも記憶される場所です。)

この地名をご覧になって、世界会議のいくつかを連想される方もいらっしゃるかもしれません。以前は政治家が余裕のある家庭、上流階級の出身者であるケースが多かった事が背景にあります。彼らのなじみのあるリゾート地がそのまま会議地になっているケースがあります。今では考えにくかもしれませんが、セキュリティ面を考えても順当な選択だったのです。

 

さて、結局母エレンはマレが16歳の時、親族総出の反対を押し切って離婚を成立させ、ジョニーとの生活を始めました。すべての特権を失い、一市民としての新しい人生のスタートでしたが、実は母がしばしば援助を行いました。(国によって状況は違いますが、ドラマ「ダウントン・アビー」でも描かれているように女相続人は自分の財産をまだ家の主人の許可なしに自由にできない時代だった背景もあります。)

母を失ったマレは沢山の使用人のいる家庭ですから、生活に困りはなりませんでしたが、父一人の家庭で育てるのは無理があるとの考えと、すでに喘息の発作を起こしていたことも鑑みて母方の祖母ウィルヘルミナに引き取られて育つことになります。

この背景が彼の美術コレクターとしての姿のベースになっています。

すでにここで紹介した現在ハッリウィル美術館として公開されている家にマレは引き取られ育ったのです。旅好きでエジプトで家族を招いてクリスマスを過ごすこともあった祖母ウィルヘルミナはコレクションにも熱心でした。彼女が旅先で集めた仮面や人形、布のコレクション、絵画そして陶器のコレクションが山ほど、加えて陶器に関しては趣味が高じて自分の家に陶器の絵付けの部屋を作り、職人さんを呼んでそこで作業させたほどでした。

マレがここで始めた最初のコレクションは絵葉書だったようです。

 

私は遅まきながら2009年に初めてダンス博物館を訪れた時、初めて彼の育った家が美術館になっていることを知りました。当時の館長だったエリック・ナスランドに会い、バレエ・スエドワの事、バレエ・リュスの事など色々話していると、近くにマレの育った家があるのは知っている?という話になりました。

私は知らなかったので、驚き、是非場所を教えてほしい、行きたいといいました。秘書の男性が近いからと案内してくれました。その秘書の説明を受けながらマレの過ごした空間を楽しみました。彼が物語の主人公のようにシーツをつなげたロープで脱出した2階の自室も健在でした。

今回COVID19でも感じる事ですが、もちろん映像や書籍、話で伝わることもありますが、その場に行くことでしか感じることのできない感覚、想像力が目を覚ます感じ、あるいはこれまで知った知識の点が線になる感じというのはあるように思います。

研究を始めた時には「大地主」でバレエ・スエドワを主宰した存在としか分からなかったマレが血肉をもって私の中で動き始めたのはあの空間に行ったことはとても大きかったのです。

そんな場所で育った彼が、パリで活躍し、アフリカを愛し、そしてストックホルムにダンス博物館を作った。何とも壮大でまるで小説の主人公のような人生。

その彼の活躍を追う事は私の人生に確かに歓びと楽しさを与えてくれています。彼は考えもしなかったでしょうけれど。

 

次回はいよいよ最終回。

7月17日祇園祭の日の更新です。

 

芳賀直子オンライントーク「バレエ・スエドワトーク」のお知らせ。>

 

マレ2歳

ロルフ・ド・マレ2歳の時の肖像画、スウェーデン人画家エミル・オステリンド画

2階へ

マレの2階の部屋へと続く階段

母とヨット

マレが12歳頃、母とヨットで遊ぶ1枚

軍役時代のジョニー・ルーズヴァルト、後に美術史で大学教授となった

(モノクロ写真、エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より/カラー写真ハッリウィル美術館カタログ扉より)

グロリア・スワンソンとルドルフ・ヴァレンチノ

<ロマンスと友情~2~>

◆ 2 ◆ ヴァレンチノとの友情

私が最初にみたヴァレンチノは写真でした。その完璧といってもいい美しさに驚きました。その後『シーク』『血と砂』といった作品を見る機会があり、動いていてもいちいち「さまになる」役者だなぁと思いました。

バレエ・リュスの研究を進める中で彼が死んだ1926年の葬儀に10万とも20万ともいわれる人が集った様子なども知り、その人気を改めて知りました。

 

 

文字通りのスーパースター、ヴァレンチノはマレの友人の一人でした。

当時バレエの世界は映画と極めて近しい事もありますが、個人的な共通点としてはゲイであったことも大きいようです。

差別と間違われるといけないので、注意が必要ですが、芸術界のゲイネットワークの強さ広さというのは驚く部分があります。彼との関係はセクシュアルなものではなかったようですが、しばしば旅を共にしたり、自宅へ招いたことが分かっています。

 

 

こうした輝かしいスターは例えばバレエ・スエドワの初日の客席も彩りました。バレエの「初日」は長らくブラックタイ着用が常識であったことからも分かるように社交界にとってもバレエ界にとっても重要なものでした。

たとえば、1923年の初日の客席にはヘラルド・トリビューン紙によれば、ヴァレンチノに加えて、俳優ジョン・バリモア(映画『E.T.』のエリオットの娘役で有名になったドリュー・バリモアは彼の孫娘)、バレエ・リュスの主宰者ディアギレフ、その協力者でもある2人の画家バクスト、ラリオノフらの名前が並んで紹介されています。翌年の初日にはヴァレンチノは出席しなかったようですが、ディアギレフ、女優グロリア・スワンソン、「ソワレ・ド・パリ」という独自の公演を成功させたエチエンヌ・ド・ボーモン伯爵らの名が見えます。

 

 

映画はまだ一般化するようになってそれほど時が経っていなかったこともあったため、現在よりも劇場芸術の世界と映画俳優の世界の距離が近かったのです。

 

 

マレと彼らとの関係はただ、自分の主宰しているバレエ団の初日に招くというだけではなく、例えばパリのサン・シモン通りのパリの自宅でのパーティーにも招くなど個人的な関係を築いています。藤田嗣治、レジェ、イサドラ・ダンカン、アンナ・グールドといった今からみると1900~1920年代を代表する人達が並んでいます。

残されたマレが日々持ち歩いていた小さな手帳には彼らの連絡先が沢山書かれています。画家シャガール、ドラン、タマラ・ド・レンピッカ、ピカビアといったバレエ・リュスとは少し違うサークルの人達やマン・レイ、キリコ、ボナール、ピカソ、といったバレエ・リュスと重なる人達の名もあります。

マレならではの交際範囲といえそうです。

 

 

ヴァレンチノのアシスタントでありスクリーンテスト等を行っていた役者アンドレ・ダヴァンはマレにとってボルランの次のボーイフレンドとなりました。公私共に親しい関係だったわけです。

アンドレ・ダヴァンは、古い映画を知っていたら聞いたことがあるだろうグロリア・スワンソンのエージェントも務めることになったので、マレの近くには映画関係者も集うようになったのでした。その中にはメアリー・ピックフォードと結婚したダグラス・フェアバンクスもいました。

彼らのサイン入りの写真がマレのコレクションには沢山ありますし、自宅に置かれていた芳名帳にも見つけることができます。

 

 

マレが映画界の人達との交流が結実した作品の筆頭に挙げられるのが、1925年の世界初のバレエの一部としてルネ・クレールが映画『幕間』が含まれた『本日休演』の上演です。バレエに初めて映像が使われた作品としても記録されています。

 

 

映像について、ディアギレフは信頼しきれない気持ちを抱いていましたが、マレは新しい可能性としてとらえていましたし、民族舞踊の記録では積極的に映像を用いています。元々映像に関心があったからこその交流であったということもあるでしょう。

 

 

ルネ・クレールの『幕間』はバレエ『本日休演』のために制作された短編映画ですが、現在はパブリックドメイン版が公開されていて見ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=2kGOIysVl8I

 

 

撮影には当時マレがバレエ・スエドワの本拠地として借りていたシャンゼリゼ劇場の屋上が使われています。マレとボルランはもちろん、ピカビアらが出演している、資料としても極めて重要な作品です。

ボルランはこの他にも映画に出演していますが、役者としては大成しませんでした。ニジンスキーと違ってそのような映像も残っているボルランのダンサーとしての評価はなぜかまだまだ遅れています。

 

 

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さてこの連載もあと2回を残すところになりました。

終了後、Zoomにてバレエ・スエドワについてのトークイヴェント行います。詳細次回発表いたします。

Zoomだからこそのバレエ・スエドワのコレクション紹介もできるかもしれない、と検討中です。

「牧神」を演じるヴァレンチノ

ハリウッドの女優で衣裳、美術デザイナー、2年間ヴァレンチノの妻だったナターシャ・ランボワによってプロデュースされた「牧神」を演じるヴァレンチノ。ナターシャは最初はバレエ・ダンサーを目指していた。

グロリア・スワンソンとルドルフ・ヴァレンチノ

グロリア・スワンソンとルドルフ・ヴァレンチノ、1923年 2点 Emily W. Leider “Dark Lover The life and Death of Rudolph Valetino” 、2003より

まつ毛が長く驚くほど美しい茶色の瞳だったというアンドレ・ダヴァンとマレ1920年代

(エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より)

<ロマンスと友情~1~>

◆ 1 ◆ ニルスのふしぎな旅 with マレ

年齢がバレますが『ニルスの不思議な旅』というアニメがありました。ガチョウのモルテンに載って14歳の少年ニルスが旅する話です。この作品は元々スウェーデンの子供たちが自国の地理を楽しく学べるようにという政府からの依頼を受けて児童文学の作家セルマ・ラーレゲルレーヴが書き、1906~1907年に刊行されたものだそう。

私が最初にマレの恋人であり、生涯の友人でもあったニルス・フォン・ダルデル(1888~1943)の名前を聞いて連想したのはそのニルスでした。

 

 

ニルスは名前の「フォン」から分かるように貴族出身でした。

マレと同い年で似たような環境で育ち、共に若い頃は健康が思わしくなく、そしてゲイだったことから親しくなり、夏の休暇をしばしば共に過ごし、1914年のアルジェリアへの旅や1917年の世界旅行はほとんどの行程を一緒に移動しています。1917年の旅では日本が気に入り、マレの旅立ちを見送って半年ほど残ったのは以前こちらで紹介した通りです。

ニルスは自身も画家で、しばしばパリを訪れ多くの芸術家とも知り合っています。大変な美男でその「ダンディー」な姿は被写体にもなりました。現在、常設はされていませんが日本にあるマリー・ローランサンのコレクション(以前蓼科、赤坂に美術館がありました)にはマリー・ローランサンが描いたとても素敵なマレの全身を描いた肖像画があります。

 

 

ニルスはまた、マレが自らの絵画コレクションをつくるに当たって大きな役割を果たしました。パリではアンリ・マティス、ジョルジュ・ブラック、パブロ・ピカソらと親交を結び彼の紹介でマレは彼らと知り合い、作品を購入し、後にバレエ・スエドワの美術を依頼しています。ニルスの果たした役割は非常に大きく、バレエ・リュスでのグリゴリエフのような片腕のような存在だったと言えます。

ニルスはパリで画商のアルフレッド・フライシュマンの紹介で有名なガートルード・スタインのサロンも訪れています。

マレが1914年にマリー・ローランサンの『若い女性達』を高額で購入したことで彼女の画家として地位もぐんと上がったことももう少し記憶されていいのではないでしょうか。この年に購入したジョルジュ・ブラックの『フルーツボウルと静物』と共に現在、ストックホルムの現代美術館に収蔵されています。2点目のピカソ『ラパン・アジル』を手に入れたのもこの年でした。

ちなみにコレクターの常として、彼は売買もしています。

戦後A.I.D.の維持の費用に苦労するようになるとピカソの『ラパン・アジル』を手放しています。当時のピカソ作品最高額を記録しています。(換算が難しいのでそのまま記載しますが、1914年に7000マルクで購入したものが1952年に40,000ドルで競り落とされました)

彼の美術への審美眼は彼独自のものではありましたが、その実際のやりとりやパリへの先導者としてニルスの役割は小さくありません。

 

 

ニルスはマレの恋人の一人でもありましたが、熱烈に恋した相手というよりは死ぬまで近くにいた親友となりました。ディアギレフにとって天才ニジンスキーは最高の恋人でかけがえのない存在であり、一方で(ニジンスキーが去って随分後に出会った相手ですが)ボリス・コフノは恋人というよりは片腕のような、秘書のような存在であったのと少し似ていると言えるでしょう。

当時、フランスでは認められていましたが、スウェーデンでは1944年になるまで同性愛は犯罪でした。彼はすでにご紹介したように王を自宅に招くほど格式の高い貴族でしたから、大っぴらに男性の恋人を連れて歩き、それを表立って非難されることはありませんでした。しかし、1950年にピカソ『マンドリン弾き』寄贈しようとした時には彼がゲイであることから事がなかなか進まなかったことが分かっています。

2009年にストックホルムで開催された展覧会では彼のゲイの恋人も写真で多数紹介されていました。

日本で同じような展示はまだ難しそうですが、マレの人生を考えた時、そして彼の活動を考えた時、重要な意味を持つ人達です。

 

 

次回はマレの華麗なる交友をご紹介します。

7月4日更新です。

旅先のアルジェリアでラクダの背に乗るロルフ・ド・マレ(左)とニルス・フォン・ダルデル(右)、1914年

ニルス・フォン・ダルデルが描いたロルフ・ド・マレ、1916年

ニルス・フォン・ダルデル、1917年

(写真3点共エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より)

<世界を股にかけた男~2~>

◆ 2 ◆ インドでもシボレー

 

前回ご紹介したように、マレは当時の貴族として「当然」だった、でも今から考えると驚くような数々の行動をしています。

 

基本的にマレも他の貴族同様、どこに行っても自分の生活様式を大きく崩すことはありませんでした。だからこそ、ケニアの白亜の邸宅での生活にも常駐の別荘管理人を置き、欧州に居る時と同じ生活を続けていたのです。

その一方で、その場でなければできない事には貪欲に取り組んでいます。活動の中心の一つであった民族舞踊についても自ら参加して踊ってみることもありました。また若い頃は何度も療養所に入るほどの喘息持ちだったのですが、年を重ねてからはスイスでスキー、ハワイでサーフィンに興じ、水上スキーをし、ヨットを操り、アフリカで狩りを楽しんでいます。

今では「狩り」というと眉を顰める人も多いですが、少なくとも当時は「文化」であり「スポーツ」として存在し、とがめる人はいませんでした。

 

また、19歳で免許を取得してから、生涯にわたって楽しんだのはカーレースでした。マレは大の犬好きで幼い頃から生涯多くの犬と時を共に過ごしていますが、それと同じ位、車好きだったのです。運転手がつくことも多かったのですが、ドライビングは趣味の一つになり、生涯続いたのです。

 

驚かざるを得ないのがバリ島、インドへの調査行でもシボレーに乗っていたということでしょうか。このシボレーはアメリカで購入して船で運んだもの。当時の販売価格は670ドル、労働者の年収の2倍近い、まだまだ高価なものでした。

写真とTown Sedanとの記載から、1935年のシボレーと推測しての数字です。

だとすると、排気量3.4l、6気筒、210 Nm / 155 ft.lb / 21.4 kgm / 1000-2000 rpmという数字があります。私はそこまで車に詳しくないので、これがインドネシアの島々、スマトラ島、バリ島といった土地を走るのにふさわしい車だったのか現時点で私は判断できないのですが、(もう少し調べますが、詳しい方是非教えて下さい)実際問題としては苦労の連続だったことが分かっています。舗装道路がない、道なき道を行く途中でしばしばぬかるみにはまりそこからの脱出に数時間を要することもありました。また、ナイル川を下る際には載せられるサイズの船がなく、この車を乗せるために写真のような筏が作られました。

この写真を見た時には驚きました。当時他に方法はなかったと思われますが、前回ご紹介したスウェーデンからアフリカへのケータリングなど桁外れなことが多いマレの行動ですが、これも想像を超えていました。

 

これはジャワ島からインドへ渡る時の一幕です。彼はジャワ島で多くの民族舞踊の調査をしていますが、良く知られているバリ島の男声合唱によるケチャが今の形にドイツ人によって整備される前の姿や、宮廷で上演されていたガムランといった現在では失われた姿も取材しています。失われる間際にとらえられた貴重な映像であり、資料がA.I.D.に収められたのです。時に、部族ではすでに失われていた踊りを覚えている人を探してもらって映像に収めたものもあります。

 

マレのダンスへの視線が、決して劇場だけではなくこうした民族舞踊にまで注がれていたのは特筆すべき事だと思います。この彼の視線は今の感覚でいう「ダンス」としては当たり前かもしれませんが、1930年代、かつては自分のバレエ・カンパニーを主宰していた人がもち視線としては稀な事でした。

こうした広いダンスへの視線はA.I.D.の姿勢に色濃く反映されることになりました。

このバリ、インドの旅には人類学者のクレール・ホルトが途中から合流しています。旅の行程についても相談の上決めたようです。

そして第二次世界大戦間際のA.I.D.での最後の展覧会はこの旅の成果でもある『オランダ領インドの演劇とダンス』として展示されました。

 

ちなみにこのシボレーはインドで売却して帰国した、との事。クラシックカー市場ではまだ現役で走っているものもありますから、もしかしたらインドのどこかでまだ走っている可能性もありますね。

 

次回はニルスの不思議な旅、です。(どのニルスでしょうか)

6月27日更新です。

インドヘむかって特製の筏で運ばれるシボレー

ジャワに到着したシボレー
(写真2点はエリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より)

1935年のシボレー一覧、トランクの形、窓の形状からこの右上のThe Chevolet Master de lux sport sedanではないかと推測しています

<世界を股にかけた男~1~>

◆ 1 ◆ 珈琲農園とケータリング

前回マレの「貴族」らしい生活について少しだけ触れましたが、彼は自国の自らの広大な領地をもっていただけではなく、他国にも拠点を作りました。貴族としての常として、彼はスウェーデン国内にもいくつかの拠点をもっていましたし、海外でも同様でした。彼が育ったかつての祖母の家は現在ハッリウィル美術館として公開されていますが、ここだけが彼の拠点ではありませんでした。パリではサンジェルマンの拠点、そしてバレエ・スエドワの拠点としてシャンゼリゼ劇場を7年の契約で借りあげたのはすでにご紹介したとおりです。

1931年からはケニアのコーヒー園を所有していました。ナイロビから8キロほど北の地で珈琲の生育が良い場所だったそうです。

映画『インドシナ』(1992年)ではゴム農園を経営する女性の一大叙事詩のような物語をカトリーヌ・ドヌーブが演じていました。私にとっては忘れられない映画の一つでありつづけていますが、あの中で描かれていたような農園経営を欧州の人達が行っていた時代でもありました。時代も1930年代でほぼ同じ頃です。

 

マレがコーヒー園を購入したのは、すでに近くには友人達が農園を経営していたことも決め手になったようです。農園近くにマレが建てたのは、白亜の宮殿というにふさわしいコロニアルなたたずまいの邸宅でした。これも貴族の常ですが、家の管理人を雇い、思い立って行っても生活ができる環境を整えていました。

今では否定的にみられる事も多い植民地、プランテーションですが、西欧の生活そのままを異国で送ろうとする姿は今の私たちからみると「おとぎ話」みたいなエピソードも沢山。どんなところへ行っても白いスーツ、というコロニアル・ファッションもあの時代ならのものと言えるでしょう。

マレはこのA.I.D.の活動が活発な時代には長期滞在することはできませんでしたが、第二次世界大戦を経たあとは状況が変わりました。

琲農園は戦争で荒廃し、別荘も荒らされ無残な姿となってしまいました。

パリのA.I.D.の活動も縮小を余儀なくされ、自身のパリの拠点も縮小し、コレクションの行方について考え始めていました。

ですが、マレがダンスへの情熱や活動をしていなかったわけではなく、相変わらずひっきりなしに資料を見にA.I.D.への訪れがあり、またマレには講演の依頼があり世界を飛び回っていました。彼は美術から活動を始めたこともあり、「なんで美術史では大学教授になれるのに、舞踊史にはないんだ」と疑問に思いその下地作りという意味でも自身の講演は積極的に受けていました。現在でも日本にはありませんね…あの世のマレと話してみたいものです。

 

 

戦後、珈琲農園は手放したものの、別荘は修復し、1950年には6カ月もその地で過ごしていたほどで、ケニアが大好きだったのです。

思い入れのある場所だったようですが、1956年には手放すことになりました。ケニアで起こっていた英国からの民族独立運動「マウ・マウ団」の活動が激しくなり、近くの人が殺害されるなど不安定な情勢になり、外国人としてそこに住んでいるだけで命の危険を感じる場所になってしまったからでした。

 

 

そんなケニアでのエピソードですが、最初に読んだとき、私の翻訳ミスかと思うようなこともしています。何と、スウェーデン、ストックホルムからケータリングをしているのです。

戦争で荒廃した家を修復した後、1949年に行われたマレの家でのパーティーの際しての事でした。アフリカまでの世界初の海を渡るケータリングだったでしょう。

これはスカンジナビア航空(SAS)がスウェーデンとケニアの初の直行便就航を宣伝するために、マレが考え提案し、実現させた事でした。日本の三越、ロンドンのハロッズのような位置付けのスウェーデンの最も有名な高級デパート「ノーディスカ・カンパニー(NK)」からのスモーガスボードなどの空輸はいい宣伝になると持ち掛けたのです。しかも、デパートの宣伝になるのだからとかなりのディスカウントをさせているのも面白い点です。

水曜日にスウェーデンを飛び立ったSASは予定通りに荷物を運び、マレの家で金曜日のパーティーに振舞われたのです。これはNKデパートにとってもモスクワのスウェーデン大使館でのパーティーへのケータリングをしのぐ最長の距離を運んだケータリングになりました。

スウェーデン、ストックホルムを訪れた時、目抜き通りにある一番大きなデパートがこちらでデザインが魅力的な品々、そして中のカフェの小エビが山盛りに載ったオープンサンドも美味しいデパートでした。

デパートのサイトもご参考までに:

https://www.nk.se/stockholm/

 

 

今回は少し話があちらこちらに行きましたが、次回もマレのまさかの世界での姿をお伝えします。

6月19日更新です。

ハッリウィル美術館リーフレットより。マレが育った家、彼は2階に自室をもっていました。左上はマレを育てた母方の祖母。
http://hallwylskamuseet.se/en

SASによってケニアに空輸されたNKデパートからのケータリング

そのケータリングが振舞われた1949年のマレの家でのパーティーの一場面

(写真2点はエリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より)

翁の面を手にもつロルフ・ド・マレ

<日本文化とのかかわり~2~>

◆ 2 ◆ 民族舞踊をおいかけて…

本題に入る前に本日(6月6日)は『人とその欲望』の初演日です。

1921年、バレエ団結成2年目の事でした。この作品には日本にも深く関係のあるポール・クローデルが深く関わっています。(ポール・クローデルは早くから日本に深い関心を寄せていただけではなく、1921年から1927年まで駐日大使として日本に赴任していました。)

ロダンの恋人で、何度が映画にもなったカミーユ・クローデル、の弟でもあります。

(個人的には1988年ブリューノ・ニュイッテン監督の『カミーユ・クローデル』のイザベル・アジャーニの印象的な演技に忘れ難いものがありますが、2018年に『ロダン~カミーユと永遠のアトリエ』、監督・脚本ジャック・ドワイヨンで公開されています。私は見損なっているのですが…。)

彼が台本を書き作曲をダリウス・ミヨーが手掛けたこの作品は実はニジンスキーに踊ってもらいたいと考え、1920年にディアギレフに聞かせたものの結局上演には至らなかったのです。

ディアギレフが興味を持たなかった作品をマレが舞台化したというわけです。オードリー・パールがデザインした階段状になった舞台や顏まで覆う衣裳は今見ても斬新です。「活人画」風と言われた振付も多いバレエ・スエドワですが、舞台構造からも衣裳からも多くの人が「バレエ」と聞いて想像する動きは出来そうにないことも分かります。

再現される日が来るのでしょうか…。

ちなみに後、1924年6月にはミヨー音楽、ココ・シャネル衣裳の『青列車』をバレエ・リュスはシャンゼリゼ劇場で初演しますが、これも偶然ではないはずです。

 

さて、ディアギレフに関心を持たれなかった作品を見事作品として上演したロルフ・ド・マレ。

前回ご紹介したように、彼はバレエへの関心を持つより早く民族舞踊に深い関心を寄せていました。これは幼少期、父に連れられて出かけたアフリカでの体験、それ以前から地主として自分の土地で日常的に見てきた季節の祭りがベースにあるようです。

 

スウェーデンの民族舞踊は後にバレエ・スエドワの演目にも登場しています。『聖ヨハネの夜』(1920)、『ダンスジル』(1921)がそれに当たります。前者はスウェーデンで実際に真夏の夜に行われるお祭りを舞台とした作品でメイポールが舞台に出る民族色を前面に打ち出した作品でしたし、後者は音楽も民族音楽をアレンジしたもので衣裳も当時実際にお祭り使われてきた衣裳ほぼそのものを使いました。(この他にもスウェーデンならではの作品が登場していますが、それはまた別の機会に。)

バレエ・スエドワに先だって、バレエ・リュスでは『クアドロ・フラメンコ』というタイトルで舞台衣裳と美術はパブロ・ピカソによってデザインされたものの、振付や音楽はスペインの酒場で踊られているそのままの「フラメンコ」を1917年に上演しています。これは私たちが現在あまり疑問にも思わない“劇場でみる「フラメンコ」”の最初の例として重要なのですが、ほとんど注目されません。

マレが上演を知らなかったわけはなく、1920年、1921年の自国の民族舞踊をほぼそのまま舞台化した時に意識にあったと考えた方が自然でしょう。同時に自分が最初に関心を持った民族舞踊を欧州の人達に見せたいという気持もあったのではないでしょうか。

 

話がそれましたが、マレは1937年の訪問で日本の文楽、歌舞伎といった舞台芸術への関心だけではなく、民族舞踊やお座敷芸にも関心を広く持ったことが分かっています。

国際文化振興会が深く関わったこの滞在時にはアーカイヴの関係と思われますが、早稲田大学にも立ち寄っていますし、大変充実した内容の講演を行った事も分かっています。第二次世界大戦の気配がじわじわと広がる中での滞在でもありました。日本での舞台鑑賞の詳細についてはまだ調査の必要があります。

帰国後、1939年にはこの取材を大いに生かす形で日本をテーマにした展示を行い、『A.I.D.』では日本特集を組んでいます。この時には藤娘、歌舞伎の美術デザイン画、能衣装、文楽人形、日本舞踊の舞台で使用する小物といった実際に舞台に関わるものだけではなく、写真、プログラム、日本の舞踊について本も展示されました。日本の舞踊については通り一遍の紹介ではなく、ダンカン舞踊や来日したサカロフ夫妻、アンナ・パヴロワ、ミュージック・ホールの紹介、民族舞踊と広い視点でされていたこともマレならではだと言えるでしょう。

展覧会に合わせて、他の展覧会でもそうであったようにその国の音楽、日本の場合は社民線の音楽などだったようですが、が流れ、日本舞踊の会、それから「剣道」のプレゼンテーションも行われたそうです。

 

マレは日本だけが好きだったというわけではなく、当時のヨーロッパの芸術関係者が興味を持つ形での「オリエンタル」としての日本への関心よりは深い視点をもっていたように感じます。

 

ですが、マレのオリエンタル趣味はかなり高じていて、生活にも及んでいたことが分かっています。彼は当時の貴族(今でもその生活パターンを持ち続けている貴族も多くはありませんが存在します)の常として各地に拠点を作りましたが、パリで仕事をすると決めた時にまず拠点とする家を探しました。そしてサンジェルマン地区に構えた家で座るマレの姿を画家ニルス・フォン・ダルデルが描いているのですが、そこに鮮やかな龍の模様のタペストリーなど非常に「オリエンタル」な雰囲気の内装が描かれています。日本ではなく中国のイメージですが・・

ダルデルが創作したのではなく、残された室内写真を見るとかなり写実的に描いたことが分かっています。

そんなマレの驚くような生活を次回からご紹介します。

 

次回は6月13日配信です。

翁の面を手にもつロルフ・ド・マレ

翁の面を手にもつロルフ・ド・マレ(「エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より」

ダンスジル

『ダンスジル』の衣裳2点、女性用はカリーナ・アリが着用したもの、2014年のパリ・オペラ座博物館展示より

人とその欲望1

『人とその欲望』のオードリー・パールによる美術・衣裳デザイン
衣裳も面白いのでまたどこかで

 

6回日本展

「日本展」の時の会場の様子、藤娘が見えます(”les Archies internationals de la danse 1931-1952, 2006のp.60より)

<日本文化とのかかわり~1~>

◆ 1 ◆「櫻を見る會」に参加したマレ

ロルフ・ド・マレは生涯沢山の旅をしました。最初のヨーロッパ以外への長旅は1910年、マレが22歳の時、父に連れられて出かけたインドでした。この旅はマレにとって忘れられないものになりました。父ヘンリックが自らの50歳の誕生日を息子と迎える日程で計画したものでした。50歳の誕生日はナポリからエジプトのポートサイドに向けた船の中、シャンパンで祝われたそう。

豪華客船に汽車を乗り継ぐ旅は2カ月に及ぶもので、インドでは食後にインド舞踊を楽しんだことも分かっています。こうした体験が民族舞踊への関心を育んだのです。

翌1911年にはシャム国王のおとぎ話のような戴冠式に出席した足で初めて日本を訪れています。この時は外交使節の身分で、日本では日光や京都にあそび、横浜港から米国に向けて出港しています。

 

1917年は第一次世界大戦のさなかでしたが、彼らが立ち寄った米国ではメトロポリタン・オペラ・ハウスでの公演も行われていましたし、パーティーも通常通り開催されていました。この旅にはマレの当時の恋人で生涯の友となったニルス・フォン・ダルデルを伴っていましたが、日本へ渡る前にハヴァナですでに伝説的なダンサーだったアンナ・パヴロワの舞台を初めて見たこともわかっています。

 

1911、1917年に際しては、日本駐在中だったスウェーデン大使グスタフ・ヴァレンヴェルグに紹介を受けて、主に妻と娘が案内役を務めました。

1917年の滞在時はちょうど桜のシーズンだったこともあり、大使の紹介で「櫻を見る会」にも参加しています。

現在日本の政界を騒がせている「桜を見る会」と名前は同じですが、本来の形での開催で性質は全く違います。現在、票集めのための極めてゆがんだ形で使われている「櫻を見る会」は元々皇室主催で行われたもので、マレが参加した1917年は新宿御苑が会場で、目的も「国際親善」でした。ドレスコードも「フロック・コートにシルクハット着用、陸海軍は制服着用、」また「モーニング」は不可という興味深い記載が招待状に見られます。14:30集合、雨天は中止だけれど御苑の桜を見ることはできると招待状に書かれています。

今同じようには難しいでしょうけれど、桜には票集めよりは国際親善の方が似合いそうですね。

 

さて、桜も楽しんだ滞在を終えた1917年の滞在ではマレは5月に帰国しましたが、ニルス・フォン・ダルデルは何と日本画を学びたいと、更に5カ月も滞在し、夏は北海道に大使の家族の別荘に避暑に出かけたことも分かっています。日本ではほとんど知られていないニルス・フォン・ダルデルですが、スウェーデンの代表的な重要な画家です。

本格的に日本画を学び実践もしたとの事で掲載した写真も残っているのですが、その画家が誰なのかが未だに美術史の世界でも分からないそうです。これをご覧になって「○○ではないか」とピンときた方は是非教えていただけましたら幸いです。

 

その後マレが来日したのは1937年、これが彼にとっては最後の世界旅行ともなりました。

1936年にはジャン・コクトーが 来日もしていて案外この時期日本には1920年代の重要な人達の来日があるのです。(ちなみにコクトーも藤田嗣治と日本で再会しています。藤田のネットワークも感じさせますね。)

マレはすでにA.I.D.を立ち上げた後でしたので、積極的に舞台芸術の関係者に会ったり、資料を持ち帰ったりしています。文楽や歌舞伎を持ち込んだ機材で撮影をしており、今でも見ることができます。詳細が分かっていない部分もあり、専門家の調査が待たれます。

この滞在は国際文化振興会(現在の国際交流基金のようです)がアレンジを手伝っています。そして、1939年5月から6月にかけてA.I.D.では「日本におけるダンス」という展覧会が開催され、機関誌A.I.D.でも日本特集号が発行されました。

日本の舞踊への彼の視線は民族舞踊への視線でもありましたが、マレの極めて現代的なところはそれが西欧的ヒエラルキーに基づく「民族舞踊」ではなかった点です。バレエ・スエドワの活動からもA.I.D.の活動からもそれが見えてきます。

 

次回は6月6日更新。民族舞踊を追いかけたマレの姿です。

 

桜を見る会の招待状

桜を見る会の招待状

5回藤田との再会

藤田との再会も実現した。どんな話をしたのか気になります。場所は銀座の「料亭花月」

展覧会に合わせて発行されたA.I.D.機関誌も日本特集に

1917年の滞在時の写真、この画家は誰なのか謎を解きたい。ご協力いただけたら幸いです。

写真は4点共エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』より

<世界初の男マレ ~2~>

◆ 2 ◆ 世界初のダンス・アーカイヴ創設

ロルフ・ド・マレは前回ご紹介したコンクールだけではなく、沢山の「世界初」を手掛けた人物でした。前回ご紹介したコンクールと並んで、現在の目からみても重要で記憶されるべき仕事に世界初のダンス・アーカイヴの創設があげられます。

 

何より重要なのは、「アーカイヴ」という概念を初めてダンスにもたらし、1930年代にマレがこのような組織を私費で作った事でしょう。
当初マレはバレエ・スエドワの活動拠点を置いていた都市の最高峰の劇場、パリ・オペラ座へのコレクションの寄贈も検討しました。しかし、当時パリ・オペラ座の図書館、パリ・オペラ座のコレクションの両方の機関は国家芸術局の管轄で自由な活動ができる状態ではありませんでした。(1935年に再編成されて国立図書館管轄に変わりました。)マレの考えた「ダンス・アーカイヴ」の構想からは遠い存在だったのです。

 

そこでマレは独自の組織をつくることにしました。A.I.D.(Archives International de la Danseの略称、意味は国際ダンス・アーカイヴ)を始めるにあたってマレは宣言を出しました。それによれば、バレエ・スエドワの活動の総合的な記録とダンサー・振付家ボルランの記念として、そして総合的なダンスの場としてこの組織を立ち上げたのです。

 

A.I.D.には民族誌博物館も併設されていました。この民族舞踊の資料も実は極めて重要です。例えばマレがその収集のために訪れた時に既に失われていた民族舞踊を覚えている人をその一族の中で探し出して思い出して踊ってもらったこともありました。そうした現在では完全に失われた踊りの貴重な記録の宝庫です。バレエの一部、民族舞踊は映像に収められ、現在映像はストックホルムのダンス博物館が所蔵し、予約すれば現地で見ることができます。一部は展覧会に合わせたり、テーマが設けられたりして、会場で放映もされています。

 

さて、A.I.D.は1931年6月19日に発表され、1933年にオープンしました。
パリの高級住宅街16区のRue Vitalに、建築家スタニスラス・ランダウのデザインでアーカイヴのために新しい建物と空間が作られたのです。本気度が分かると言えるでしょう。
道に面した小さな扉から通路を抜けて入ると右手に中庭が広がり、そこを抜けると広い会場につきます。そこはレセプションや講演、時に展示室の一部として使われました。建物は2階建てで中には資料の閲覧室、資料保管室、バレエ・スエドワの常設展示会場、企画展示会場、そしてワークショップや100人が入れる上演可能な空間、映写機も用意されていました。実際、オープン後は頻繁に公演、講演、ワークショップが開催されました。ワークショップが開かれた形で開催されたのもここが初めてでした。
中庭には画家・彫刻家として活躍していたマレの母エレンによるレリーフも設置されました。エレンは息子マレの家庭教師と恋に落ちて、駆け落ちしたなかなか情熱的な女性でした。いわば息子を捨てる形での出奔でしたが、マレとエレンは終生あたたかな良い関係であり続けました。また、元家庭教師だったジョニーは美術史の大学教授となって良き伴侶として、またマレの良き相談相手としていい関係を保ち続けました。

 

さて、このA.I.D.で行われた展覧会、講演はバレエ・スエドワやパヴロワ、フォーキン、ジョゼフィン・ベーカーといった自ら関わった存在から各国の民族舞踊、舞踊に関する書籍についてまでと極めて多彩でした。ラインナップからはダンスの全てを紹介しようとする気概が感じられます。
日本からも少なからず研究者や劇場関係者が訪れた事が分かっています。また、日本を含めた海外からの郵送での問い合わせにも丁寧に対応していたことも分かっています。こうした極めて現代的な開かれた組織が個人の資金で運営されていたというのは驚くべき事です。

 

また機関誌も1932年から1936年の間19冊が発行されました。その内容もたいへん幅広くマレの考えていたダンスの姿が伝わってきます。
かつてはパリ・オペラ座とストックホルムのダンス博物館を合わせてみないと全巻見られなかったこの雑誌も今は下記のサイトで全ページが公開されています。
http://mediatheque.cnd.fr/spip.php?page=archives-internationales-de-la-danse

 

残念ながらアーカイヴの維持は経済的な側面等から難しくなり、第二次世界大戦後1952年に半分がパリ・オペラ座図書館へ寄贈され、半分を納め公開する場としてストックホルムにダンス博物館(1953年)が開館しました。半分で博物館が作られたということからもコレクションの規模の大きさが想像できるのではないでしょうか。パリ・オペラ座にコレクションのどの部分を納めるか、どこに同展示するかといったやり取りもなかなかドラマティックで面白いのですが、長くなってしまうので別の機会にご紹介できたらと思います。
ちなみに私が初めて「A.I.D.」を知ったのはパリ・オペラ座図書館のバレエ・リュスの資料を調査し始めた1990年代終わりの頃、請求して出てくる資料の多くにスタイリッシュな「A.I.D.」というスタンプ(2種ありましたがどちらもスタイリッシュでした)が押されているのを見て何だろう?と思ったことがきっかけでした。
この「A.I.D.」の先鋭的な活動を今継承しているところはありません。ダンスのアーカイヴを考えるとき、彼らの活動から学ぶべきところもまだあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 

次回は5月30日配信。
マレが日本を訪れ「櫻を見る会」に参加したお話しなど。

 

※画像はすべてfrom Naoko Haga Collection

AID所在地の現在。残念ながら取り壊され、このようなアパルトマンになっています。今でも高級住宅地。歩いてエッフェル塔まで行かれる、そんな場所です。

AID跡地を訪れた日にフィリップ・ドゥクフレを見たのですが、突然の雨に飛び立った鳥たちが映画のワンシーンのようでした。

機関誌の表紙、前回の3回目のコンクール表紙と同じモチーフが使われています

A.I.D.のチラシ、ボクシングとダンスという斬新な視点、日本がテーマの回もありました

<世界初の男マレ ~1~>

◆ 1 ◆ 世界初の国際振付コンクール開催

 

 

現在、日本ではバレエについて一般の雑誌やTVが取り上げる一番頻度の高いトピックスはコンクールの入賞です。
では、そのコンクールがいつから始まったのか、と聞かれると即答できる人はわずかなのではないでしょうか。

 

実は「初」の国際振付コンクールを開催したのはロルフ・ド・マレ、1932年7月2~4日の事でした。これは少なくとももう少し知られてもいいのではないか、とコンクールの話が出る度に私はかなしく思うのですけれど…。

 

ではそれまでなぜコンクールがなかったのか? それはバレエの成り立ちを考えると分かるのですが、バレエ・リュス登場までバレエは基本的に劇場付属のバレエ・カンパニーが基本でした。インディペンデントなプロフェッショナル・ダンサーはほとんどおらず、ましてや振付のコンクールなど誰も必要を感じていなかったからです。
マレがこのコンクールを立ち上げようと思った理由は最愛(と言っていいでしょう)の恋人ジャン・ボルランの米国で客死でした。彼の記念として次回紹介する国際バレエ・アーカイヴと共に構想したのでした。
コンクールの名前こそ「国際振付コンクール」とありますが、内情は振付に限ったものではなく、今のバレエ・コンクールのようなダンサーをメインにした賞も、美術・衣裳の賞も設定された大変視野の広いものでした。
また出場者たちは交通費こそ自費でしたが、宿泊、食事はコンクール主催者によって支払われるという条件の良いものでした。

 

評価基準も大変明確に下記のような6点とされました。1.振付、2. アンサンブルの踊り、3.個人の踊り、4.衣裳、5.音楽、6.バレエのアンサンブル。それぞれの配分は振付、20ポイント、アンサンブルの踊り、20ポイント、3.個人の踊り、15ポイント、バレエのアンサンブル、20ポイント、残りの25ポイントは審査員の個人の裁量というものでした。
この評価基準を見ても、コンクールが広い視線を保とうとしたこと、そして評価基準はあくまでもダンスであったこと、バレエという視点も明確だった事がわかります。

 

また、これは現在のダンス、バレエでしばしば話題になる「振付とは?」という問題とも深く関わると思うのですが、コンクールでは最低6人という規定がありました。現在振付コンクールをすると応募としてはかなりの割合を占める自分自身に振付けて踊るソロでは振付とみなさないという考えだったのでしょう。他者の身体に移せる動きというのは私も「振付」という概念の中で重要な要素なのではないかと感じています。
審査委員は全部で20名。とても長くなってしまうので一部をあげるにとどめますが、バレエ・シーンの重要人物が並ぶ顔ぶれを見ているだけでも色々と楽しい想像が広がります。
バレエ・リュスをパリに初めて紹介した興行主でシャンゼリゼ劇場を創設して破産したガブリエル・アストリュク、ドイツ表現主義舞踊で必ず出てくるルドルフ・フォン・ラバン、かつてロシアでディアギレフを『帝室劇場年鑑』の編集担当としてロシア帝室劇場に招き、ダルクローズに踊りを習って自ら踊り、1926年にパリに移住していたセルジュ・ヴォルコンスキー公爵、バレエ・リュスでも活躍した指揮者ウラジミール・ヴォルシュマン、画家フェルナン・レジェ、作曲家フロラン・シュミット、1930年に引退したパリ・オペラ座の今でいうエトワール(当時はプリマ・バレリーナという称号)だったカルロッタ・ザンベリ、バレエ・リュスにも参加、アンナ・パヴロワのパートナーとしても知られたボリショイ・バレエ団出身アレクサンドル・ヴォリーニンらがいました。ヴォリーニンの元からは『若者と死』で一躍名をあげたジャン・バビレやアンドレ・エグレフスキー、ジジ・ジャンメール、デヴィッド・リシーンといった人達が育っていますから、もう少し顧みられてもいい人物でもあります。
さて、コンクールですが、出場したのは7月2日7組、3日6組、4日6組の系19組、そして最終日の最後はガラ公演が行われました。作品はバレエ、今でいうコンテンポラリー・ダンス的な作品までが並びました。
賞金もなかなか豪華で金賞25000フラン、銀賞10000フラン。この他に「小さなダンサーたちのため」のコンクールも開催されています。4歳から12歳までのダンサー達に出場権がああり、1位3000フラン、2位1500フラン、3位750フランと子供相手にはなかなかの金額でした。

 

このコンクールは第二次世界大戦がなければそのままシャンゼリゼ劇場で開催が続いてパリのコンクールとして定着した可能性も否定できませんから、戦争は様々に文化を中断するのだと改めて思います。
1回目はシャンゼリゼ劇場、2回目は1945年にスウェーデンで11人の振付家が出場して開催、3回目は1947年にコペンハーゲンで25人の振付家による24作品が賞を競いました。この3回目は後に『令嬢ジュリー』の振付で知られることになるブルギット・クルベリも出場しており、受賞を有力視されていたのですが、上演時間の規定20分を超えたために受賞することはありませんでした。審査員の厳密さそしてマレの考えもあったようです。自身の国の作品をひきたてるよりその賞にふさわしい作品をというマレの意思を感じるエピソードです。

 

もっとも華々しく開幕した第1回目で金賞を受賞したのが、『緑のテーブル』です。日本のスターダンサーズ・バレエ団がレパートリーとして上演したのを見た方もいらっしゃるでしょう。今年もCOVID19 がなければ上演予定でした。(今後の再演を期待しましょう)

それにしても『緑のテーブル』は今でも踊り継がれる戦争を正面から扱った極めて珍しいバレエ作品ですが、それが世に出るきっかけとなったこの国際振付コンクールがこれほど無視されているのは不思議でしかありません。
ここを読んでくださった方々は是非覚えておいていただけたら幸いです。

 

次回は5月23日配信、マレが手掛けたもう一つの「初」をお届けします。

 

 

 

リンク:
動画はいずれも公益財団法人スターダンサーズ・バレエ団によるもの

COVID19禍の今だからこその『緑のテーブル』@ home/The Green Table at home
公開URL:https://youtu.be/PIZ53Imn55w

 

公演予告のページにも一部動画があります。
https://www.sdballet.com/company/c_archive/p2020/2003_dancespeaks/

1932年の世界初のコンクール、プログラム

1947年、コペンハーゲン王立劇場での最後のコンクールプログラム表紙

中には見た人の受賞の書き込みもあり、臨場感が感じられます