<世界初の男マレ ~2~>

AID所在地の現在。残念ながら取り壊され、このようなアパルトマンになっています。今でも高級住宅地。歩いてエッフェル塔まで行かれる、そんな場所です。

AID跡地を訪れた日にフィリップ・ドゥクフレを見たのですが、突然の雨に飛び立った鳥たちが映画のワンシーンのようでした。

機関誌の表紙、前回の3回目のコンクール表紙と同じモチーフが使われています

A.I.D.のチラシ、ボクシングとダンスという斬新な視点、日本がテーマの回もありました

◆ 2 ◆ 世界初のダンス・アーカイヴ創設

ロルフ・ド・マレは前回ご紹介したコンクールだけではなく、沢山の「世界初」を手掛けた人物でした。前回ご紹介したコンクールと並んで、現在の目からみても重要で記憶されるべき仕事に世界初のダンス・アーカイヴの創設があげられます。

 

何より重要なのは、「アーカイヴ」という概念を初めてダンスにもたらし、1930年代にマレがこのような組織を私費で作った事でしょう。
当初マレはバレエ・スエドワの活動拠点を置いていた都市の最高峰の劇場、パリ・オペラ座へのコレクションの寄贈も検討しました。しかし、当時パリ・オペラ座の図書館、パリ・オペラ座のコレクションの両方の機関は国家芸術局の管轄で自由な活動ができる状態ではありませんでした。(1935年に再編成されて国立図書館管轄に変わりました。)マレの考えた「ダンス・アーカイヴ」の構想からは遠い存在だったのです。

 

そこでマレは独自の組織をつくることにしました。A.I.D.(Archives International de la Danseの略称、意味は国際ダンス・アーカイヴ)を始めるにあたってマレは宣言を出しました。それによれば、バレエ・スエドワの活動の総合的な記録とダンサー・振付家ボルランの記念として、そして総合的なダンスの場としてこの組織を立ち上げたのです。

 

A.I.D.には民族誌博物館も併設されていました。この民族舞踊の資料も実は極めて重要です。例えばマレがその収集のために訪れた時に既に失われていた民族舞踊を覚えている人をその一族の中で探し出して思い出して踊ってもらったこともありました。そうした現在では完全に失われた踊りの貴重な記録の宝庫です。バレエの一部、民族舞踊は映像に収められ、現在映像はストックホルムのダンス博物館が所蔵し、予約すれば現地で見ることができます。一部は展覧会に合わせたり、テーマが設けられたりして、会場で放映もされています。

 

さて、A.I.D.は1931年6月19日に発表され、1933年にオープンしました。
パリの高級住宅街16区のRue Vitalに、建築家スタニスラス・ランダウのデザインでアーカイヴのために新しい建物と空間が作られたのです。本気度が分かると言えるでしょう。
道に面した小さな扉から通路を抜けて入ると右手に中庭が広がり、そこを抜けると広い会場につきます。そこはレセプションや講演、時に展示室の一部として使われました。建物は2階建てで中には資料の閲覧室、資料保管室、バレエ・スエドワの常設展示会場、企画展示会場、そしてワークショップや100人が入れる上演可能な空間、映写機も用意されていました。実際、オープン後は頻繁に公演、講演、ワークショップが開催されました。ワークショップが開かれた形で開催されたのもここが初めてでした。
中庭には画家・彫刻家として活躍していたマレの母エレンによるレリーフも設置されました。エレンは息子マレの家庭教師と恋に落ちて、駆け落ちしたなかなか情熱的な女性でした。いわば息子を捨てる形での出奔でしたが、マレとエレンは終生あたたかな良い関係であり続けました。また、元家庭教師だったジョニーは美術史の大学教授となって良き伴侶として、またマレの良き相談相手としていい関係を保ち続けました。

 

さて、このA.I.D.で行われた展覧会、講演はバレエ・スエドワやパヴロワ、フォーキン、ジョゼフィン・ベーカーといった自ら関わった存在から各国の民族舞踊、舞踊に関する書籍についてまでと極めて多彩でした。ラインナップからはダンスの全てを紹介しようとする気概が感じられます。
日本からも少なからず研究者や劇場関係者が訪れた事が分かっています。また、日本を含めた海外からの郵送での問い合わせにも丁寧に対応していたことも分かっています。こうした極めて現代的な開かれた組織が個人の資金で運営されていたというのは驚くべき事です。

 

また機関誌も1932年から1936年の間19冊が発行されました。その内容もたいへん幅広くマレの考えていたダンスの姿が伝わってきます。
かつてはパリ・オペラ座とストックホルムのダンス博物館を合わせてみないと全巻見られなかったこの雑誌も今は下記のサイトで全ページが公開されています。
http://mediatheque.cnd.fr/spip.php?page=archives-internationales-de-la-danse

 

残念ながらアーカイヴの維持は経済的な側面等から難しくなり、第二次世界大戦後1952年に半分がパリ・オペラ座図書館へ寄贈され、半分を納め公開する場としてストックホルムにダンス博物館(1953年)が開館しました。半分で博物館が作られたということからもコレクションの規模の大きさが想像できるのではないでしょうか。パリ・オペラ座にコレクションのどの部分を納めるか、どこに同展示するかといったやり取りもなかなかドラマティックで面白いのですが、長くなってしまうので別の機会にご紹介できたらと思います。
ちなみに私が初めて「A.I.D.」を知ったのはパリ・オペラ座図書館のバレエ・リュスの資料を調査し始めた1990年代終わりの頃、請求して出てくる資料の多くにスタイリッシュな「A.I.D.」というスタンプ(2種ありましたがどちらもスタイリッシュでした)が押されているのを見て何だろう?と思ったことがきっかけでした。
この「A.I.D.」の先鋭的な活動を今継承しているところはありません。ダンスのアーカイヴを考えるとき、彼らの活動から学ぶべきところもまだあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 

次回は5月30日配信。
マレが日本を訪れ「櫻を見る会」に参加したお話しなど。

 

※画像はすべてfrom Naoko Haga Collection

<世界初の男マレ ~1~>

1932年の世界初のコンクール、プログラム

1947年、コペンハーゲン王立劇場での最後のコンクールプログラム表紙

中には見た人の受賞の書き込みもあり、臨場感が感じられます

◆ 1 ◆ 世界初の国際振付コンクール開催

 

 

現在、日本ではバレエについて一般の雑誌やTVが取り上げる一番頻度の高いトピックスはコンクールの入賞です。
では、そのコンクールがいつから始まったのか、と聞かれると即答できる人はわずかなのではないでしょうか。

 

実は「初」の国際振付コンクールを開催したのはロルフ・ド・マレ、1932年7月2~4日の事でした。これは少なくとももう少し知られてもいいのではないか、とコンクールの話が出る度に私はかなしく思うのですけれど…。

 

ではそれまでなぜコンクールがなかったのか? それはバレエの成り立ちを考えると分かるのですが、バレエ・リュス登場までバレエは基本的に劇場付属のバレエ・カンパニーが基本でした。インディペンデントなプロフェッショナル・ダンサーはほとんどおらず、ましてや振付のコンクールなど誰も必要を感じていなかったからです。
マレがこのコンクールを立ち上げようと思った理由は最愛(と言っていいでしょう)の恋人ジャン・ボルランの米国で客死でした。彼の記念として次回紹介する国際バレエ・アーカイヴと共に構想したのでした。
コンクールの名前こそ「国際振付コンクール」とありますが、内情は振付に限ったものではなく、今のバレエ・コンクールのようなダンサーをメインにした賞も、美術・衣裳の賞も設定された大変視野の広いものでした。
また出場者たちは交通費こそ自費でしたが、宿泊、食事はコンクール主催者によって支払われるという条件の良いものでした。

 

評価基準も大変明確に下記のような6点とされました。1.振付、2. アンサンブルの踊り、3.個人の踊り、4.衣裳、5.音楽、6.バレエのアンサンブル。それぞれの配分は振付、20ポイント、アンサンブルの踊り、20ポイント、3.個人の踊り、15ポイント、バレエのアンサンブル、20ポイント、残りの25ポイントは審査員の個人の裁量というものでした。
この評価基準を見ても、コンクールが広い視線を保とうとしたこと、そして評価基準はあくまでもダンスであったこと、バレエという視点も明確だった事がわかります。

 

また、これは現在のダンス、バレエでしばしば話題になる「振付とは?」という問題とも深く関わると思うのですが、コンクールでは最低6人という規定がありました。現在振付コンクールをすると応募としてはかなりの割合を占める自分自身に振付けて踊るソロでは振付とみなさないという考えだったのでしょう。他者の身体に移せる動きというのは私も「振付」という概念の中で重要な要素なのではないかと感じています。
審査委員は全部で20名。とても長くなってしまうので一部をあげるにとどめますが、バレエ・シーンの重要人物が並ぶ顔ぶれを見ているだけでも色々と楽しい想像が広がります。
バレエ・リュスをパリに初めて紹介した興行主でシャンゼリゼ劇場を創設して破産したガブリエル・アストリュク、ドイツ表現主義舞踊で必ず出てくるルドルフ・フォン・ラバン、かつてロシアでディアギレフを『帝室劇場年鑑』の編集担当としてロシア帝室劇場に招き、ダルクローズに踊りを習って自ら踊り、1926年にパリに移住していたセルジュ・ヴォルコンスキー公爵、バレエ・リュスでも活躍した指揮者ウラジミール・ヴォルシュマン、画家フェルナン・レジェ、作曲家フロラン・シュミット、1930年に引退したパリ・オペラ座の今でいうエトワール(当時はプリマ・バレリーナという称号)だったカルロッタ・ザンベリ、バレエ・リュスにも参加、アンナ・パヴロワのパートナーとしても知られたボリショイ・バレエ団出身アレクサンドル・ヴォリーニンらがいました。ヴォリーニンの元からは『若者と死』で一躍名をあげたジャン・バビレやアンドレ・エグレフスキー、ジジ・ジャンメール、デヴィッド・リシーンといった人達が育っていますから、もう少し顧みられてもいい人物でもあります。
さて、コンクールですが、出場したのは7月2日7組、3日6組、4日6組の系19組、そして最終日の最後はガラ公演が行われました。作品はバレエ、今でいうコンテンポラリー・ダンス的な作品までが並びました。
賞金もなかなか豪華で金賞25000フラン、銀賞10000フラン。この他に「小さなダンサーたちのため」のコンクールも開催されています。4歳から12歳までのダンサー達に出場権がああり、1位3000フラン、2位1500フラン、3位750フランと子供相手にはなかなかの金額でした。

 

このコンクールは第二次世界大戦がなければそのままシャンゼリゼ劇場で開催が続いてパリのコンクールとして定着した可能性も否定できませんから、戦争は様々に文化を中断するのだと改めて思います。
1回目はシャンゼリゼ劇場、2回目は1945年にスウェーデンで11人の振付家が出場して開催、3回目は1947年にコペンハーゲンで25人の振付家による24作品が賞を競いました。この3回目は後に『令嬢ジュリー』の振付で知られることになるブルギット・クルベリも出場しており、受賞を有力視されていたのですが、上演時間の規定20分を超えたために受賞することはありませんでした。審査員の厳密さそしてマレの考えもあったようです。自身の国の作品をひきたてるよりその賞にふさわしい作品をというマレの意思を感じるエピソードです。

 

もっとも華々しく開幕した第1回目で金賞を受賞したのが、『緑のテーブル』です。日本のスターダンサーズ・バレエ団がレパートリーとして上演したのを見た方もいらっしゃるでしょう。今年もCOVID19 がなければ上演予定でした。(今後の再演を期待しましょう)

それにしても『緑のテーブル』は今でも踊り継がれる戦争を正面から扱った極めて珍しいバレエ作品ですが、それが世に出るきっかけとなったこの国際振付コンクールがこれほど無視されているのは不思議でしかありません。
ここを読んでくださった方々は是非覚えておいていただけたら幸いです。

 

次回は5月23日配信、マレが手掛けたもう一つの「初」をお届けします。

 

 

 

リンク:
動画はいずれも公益財団法人スターダンサーズ・バレエ団によるもの

COVID19禍の今だからこその『緑のテーブル』@ home/The Green Table at home
公開URL:https://youtu.be/PIZ53Imn55w

 

公演予告のページにも一部動画があります。
https://www.sdballet.com/company/c_archive/p2020/2003_dancespeaks/

2009年に発行されたエリック・ナスランド『ロルフ・ド・マレ』

<そもそもバレエ・スエドワって?>~2~

 

 

オフィシャルウェブサイト

1998年のバレエ・スエドワ公演のプログラム表紙

「バレエ・スエドワ再現上演、スウェーデン王立バレエ団プログラム表紙」(1998年、ストックホルム)

2009年に発行されたエリック・ナスランド『ロルフ・ド・マレ』

「エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』、2009

 

◆ 2 ◆ 100周年に寄せて+今日はマレのバースデー!

 

今年はバレエ・スエドワ1920年の結成100周年です。そして本日(5月9日)はロルフ・ド・マレの132回目のお誕生日です!(1888年生まれ、1964年死去)

 

私はこの連休が終わった後、5月15日に初日を迎える『スケーティング・リンク』の再現上演のため13日からストックホルム入りする予定でした。1922年に初演されたこのアーサー・オネゲル音楽、フェルナン・レジェ美術・衣裳、ジャン・ボルラン振付の作品はストックホルム王立オペラ・ハウスで上演予定でした。

 

COVID19への対応も欧州とは違う独自路線をとっているスウェーデン、万が一の可能性を祈りましたが4月になって中止が発表されました。状況を鑑みれば仕方がない事とはいえ、私にとっては1998年から実に21年もの間待ち望んだ再現上演でしたから、心底残念なお知らせでした。

1998年6月5~13日の再現上演の際はちょうどセゾン美術館でのバレエ・リュス展が開幕中で、ギャラリートークの予定もありストックホルムへ行くことができなかったのです。薄井憲二さんがご覧になられて、左の写真の公演プログラムを展覧会会場までもって来て下さった事に大感激致しました。今でも大切にしています。

 

その時の演目は『ウィズイン・ザ・クォータ』『エル・グレコ』『ダルヴィーシュ』、『スケーティング・リンク』の4つでどれもバレエ・スエドワ作品として上演されたジャン・ボルラン振付作品。その際、『エル・グレコ』だけイヴォ・クラメール振付の新作、他は再現上演でした。薄井さんの評価はあまり芳しくありませんでしたが、バレエ・スエドワなんて世界でやっている人はほとんどいないからがんばりなさい、と励ましのお言葉をいただいたのを覚えています。

それから今年まで再演されることはなかったのです。

 

1998年のセゾン美術館でのバレエ・リュス展は私のデビュー仕事といってもいいものでしたが、その時出品作品にはバレエ・スエドワのものもわずかながら含まれていました。そこでキュレーターの一條彰子さんからの嬉しいお声がけでカタログにバレエ・スエドワについての小文「時代を駆け抜けたバレエ団 ロルフ・ド・マレのバレエ・スエドワ」が載りました。

 

ただ、実はあの文章には間違いがありました。当時はどこをどう探しても彼が高位の貴族だという事は分からず、大地主、土地改良者、という説明しか見つからず、とにかく大金持ちだったことは状況証拠から明らかだけれど素性が分からない状況だったのです。ネットも今ほど調べることが簡単ではありませんでしたし、バレエ辞典も活動については触れられたものはあっても、マレ個人については謎に包まれたままの時代でした。彼の華麗なる生涯が明らかになったのはエリック・ナスランドが書いた大著で決定書『ロルフ・ド・マレ~アート・コレクター、バレエ・ディレクター、ミュージアム・クリエーター』を待たなければならなかったのですから随分長い事かかりました。

ともあれ、今年は100周年。この機会に日本でも少しでも多くの人にバレエ・スエドワの魅力が伝わればと思ってこの連載を始めました。

 

黄信号が灯り始めてはいるものの、予定では11月にストックホルムのダンス博物館でバレエ・スエドワ展が開催されますし、日本でもバレエ・スエドワの縁があって実現した1946年初演の藤田嗣治舞台美術による『白鳥の湖』が7月18日、19日上演予定です。

実現を祈りつつ…。

 

次回は516日配信。 マレが手掛けた「世界初」とは何だったのでしょうか?

<そもそもバレエ・スエドワって?>~1~

 

 

ベント・ヘーガー『バレエ・リュス』(1992年)表紙はフェルナン・レジェ『スケーティング・リンク』

バレエ・スエドワの主宰者ロルフ・ド・マレ

『遊戯』を踊るジャン・ボルラン/”Comoedia Illustre” 1920年11月20日号
バレエ・スエドワの唯一の振付家、男性プリンシパル、バレエ教師

 

◆ 1 ◆ バレエ・スエドワって?

バレエ・スエドワとは何でしょうか。

 

Ballet Suedoisというフランス語で、スウェーデン・バレエもしくはスウェーデンのバレエ団という普通名詞です。

バレエに詳しい方はあれ?似ていない?と思う存在があるかもしれませんね。

ディアギレフが主宰したバレエ・リュス(Ballets Russes)です。

ご推察の通り、バレエ・リュスに倣う形で名前を付けたのです。ではバレエ・リュスとも関係があるのでしょうか?

 

バレエ・スエドワを結成しようとマレが考えたのはバレエ・リュスを成功に導いた振付家ミハイル・フォーキンと1913年に会ったという縁はあります。(1911年からストックホルムに定期的に招かれていた彼は第一次世界大戦中、移住していたこともあります)。

大金持で芸術的なセンスを持つマレと出会い、交流するうちにバレエ団を結成してはどうかと持ち掛け、それが実現したのです。マレの恋人はジャン・ボルランと言う若いスウェーデンのストックホルム王立劇場のバレエ・ダンサーでした。彼のためにもそれは素晴らしいだろうと思ったマレはバレエ団を結成する決意をしました。

 

マレはまずパリに本拠地となる劇場としてシャンゼリゼ劇場を7年の契約で借り上げました。そして自らの居をパリ7区、サン・シモン通りに決め、本格的に活動の準備を始めました。まず恒久的に利用できる場を用意したという点においては従来のバレエ・カンパニーの運営イメージにのっとっているということができるでしょう。

まず、ジャン・ボルラン個人のリサイタルという形で3月に公演を行った後、1920年10月23日初めての公演(ドレス・リハーサル、今で言うゲネ・プロです)が行われました。

バレエ・リュスの初日がそうであったように、パリ中の芸術関係者並びに社交界のメンバーが勢ぞろいした豪華な夜となりました。評価はまちまちでしたが、話題になったことは確かですし、バレエ・リュスよりも新しいと夢中になる観客もいました。

今では考えられないのですが、当時は日本の一般紙にもバレエ・スエドワの上演は記事になっています。日本の西欧の芸術動向への関心は現在の比ではありませんでしたが、それを差し引いても関心の高さ、話題性がうかがえます。

バレエ・スエドワのメンバーはスウェーデン、ストックホルムと隣国デンマークの王室バレエ団から集められ、ディアギレフがそうであったように「盗んだ」と一部では報道されました。それは王室バレエ団のメンバーというのは基本的に付属バレエ団で教育を受け育った存在だったからでした。

彼らの活動は1925年まで続きました。

 

初演した作品はいくつかのダンス場面を集めた『ディヴェルティスマン』、かつてニジンスキーが初演したドビュッシー作曲による『遊戯』をジャンヌ・ランバンの衣裳で、スペインを舞台としたアルベニス作曲による『イベリア』、そしてスウェーデンのお祭りの夜をテーマにした『聖ヨハネの夜』で、振付の全ては解散までジャン・ボルランが手掛けました。当時、ジャンは27歳、マレ32歳でした。

その活動は唯一ディアギレフが本気でライバルと感じるほどでした。初演でニジンスキーがかつて振付けて上演が絶えていた『遊戯』がラインナップに入っていた点もディアギレフには対抗心を強く感じさせたことでしょうし、マレも意識したからこその演目だったでしょう。

それだけでなく、ディアギレフが受け入れられなかった映像や黒人文化、ジャズを積極的に取り入れた事も若手台頭と意識されたかもしれません。ディアギレフは当時48歳、マレとは一回り以上年配でした。ディアギレフは映像を信用しなかったため、自らのカンパニーの作品に取り入れるのは遅くまたただ1回1928年『オード』のオープニングだけでした。バレエ・スエドワでは1925年に『本日休演』の中でルネ・クレールの「幕間」が作品の一部として撮影、制作され上演されましたし、初めて舞台の上で着替えを行ったり、本格的なジャズをバレエにしたり、様々な「初」を行ったバレエ団でした。早ければ価値があるというわけではありませんが、新しい事を躊躇なく取り入れるのは感覚の若さもあったでしょう。

 

バレエ・スエドワを紹介するとき、「バレエ・リュス」が登場するのは、このカンパニーが基本的にバレエ・リュスなしには生まれない存在であったこと、そのため比較せずにその特徴や魅力を浮き彫りにすることができないからです。

ちなみに私がバレエ・スエドワに出会ったのはバレエ・リュスの研究が縁でした。大学3年、研究を始めて程なくバレエ・リュスのライバルとしてバレエ・スエドワとソワレ・ド・パリの名が挙がっていたのですが、当時は探してもまとまった資料は1970年にパリ・オペラ座で行われた展覧会の薄めのカタログと1990年に発行されたベント・ヘーガー著『バレエ・スエドワ』含めごく僅かでした。

今でも残念ながら日本語でまとまって読むことのできるバレエ・スエドワの本はありません。その魅力的な姿にここで出会っていただき、一人でも多くの方に魅力が伝えられましたら幸いです。

 

次回は5月9日の配信予定です。よろしくお願いいたします。