◆ 2 ◆ インドでもシボレー

 

前回ご紹介したように、マレは当時の貴族として「当然」だった、でも今から考えると驚くような数々の行動をしています。

 

基本的にマレも他の貴族同様、どこに行っても自分の生活様式を大きく崩すことはありませんでした。だからこそ、ケニアの白亜の邸宅での生活にも常駐の別荘管理人を置き、欧州に居る時と同じ生活を続けていたのです。

その一方で、その場でなければできない事には貪欲に取り組んでいます。活動の中心の一つであった民族舞踊についても自ら参加して踊ってみることもありました。また若い頃は何度も療養所に入るほどの喘息持ちだったのですが、年を重ねてからはスイスでスキー、ハワイでサーフィンに興じ、水上スキーをし、ヨットを操り、アフリカで狩りを楽しんでいます。

今では「狩り」というと眉を顰める人も多いですが、少なくとも当時は「文化」であり「スポーツ」として存在し、とがめる人はいませんでした。

 

また、19歳で免許を取得してから、生涯にわたって楽しんだのはカーレースでした。マレは大の犬好きで幼い頃から生涯多くの犬と時を共に過ごしていますが、それと同じ位、車好きだったのです。運転手がつくことも多かったのですが、ドライビングは趣味の一つになり、生涯続いたのです。

 

驚かざるを得ないのがバリ島、インドへの調査行でもシボレーに乗っていたということでしょうか。このシボレーはアメリカで購入して船で運んだもの。当時の販売価格は670ドル、労働者の年収の2倍近い、まだまだ高価なものでした。

写真とTown Sedanとの記載から、1935年のシボレーと推測しての数字です。

だとすると、排気量3.4l、6気筒、210 Nm / 155 ft.lb / 21.4 kgm / 1000-2000 rpmという数字があります。私はそこまで車に詳しくないので、これがインドネシアの島々、スマトラ島、バリ島といった土地を走るのにふさわしい車だったのか現時点で私は判断できないのですが、(もう少し調べますが、詳しい方是非教えて下さい)実際問題としては苦労の連続だったことが分かっています。舗装道路がない、道なき道を行く途中でしばしばぬかるみにはまりそこからの脱出に数時間を要することもありました。また、ナイル川を下る際には載せられるサイズの船がなく、この車を乗せるために写真のような筏が作られました。

この写真を見た時には驚きました。当時他に方法はなかったと思われますが、前回ご紹介したスウェーデンからアフリカへのケータリングなど桁外れなことが多いマレの行動ですが、これも想像を超えていました。

 

これはジャワ島からインドへ渡る時の一幕です。彼はジャワ島で多くの民族舞踊の調査をしていますが、良く知られているバリ島の男声合唱によるケチャが今の形にドイツ人によって整備される前の姿や、宮廷で上演されていたガムランといった現在では失われた姿も取材しています。失われる間際にとらえられた貴重な映像であり、資料がA.I.D.に収められたのです。時に、部族ではすでに失われていた踊りを覚えている人を探してもらって映像に収めたものもあります。

 

マレのダンスへの視線が、決して劇場だけではなくこうした民族舞踊にまで注がれていたのは特筆すべき事だと思います。この彼の視線は今の感覚でいう「ダンス」としては当たり前かもしれませんが、1930年代、かつては自分のバレエ・カンパニーを主宰していた人がもち視線としては稀な事でした。

こうした広いダンスへの視線はA.I.D.の姿勢に色濃く反映されることになりました。

このバリ、インドの旅には人類学者のクレール・ホルトが途中から合流しています。旅の行程についても相談の上決めたようです。

そして第二次世界大戦間際のA.I.D.での最後の展覧会はこの旅の成果でもある『オランダ領インドの演劇とダンス』として展示されました。

 

ちなみにこのシボレーはインドで売却して帰国した、との事。クラシックカー市場ではまだ現役で走っているものもありますから、もしかしたらインドのどこかでまだ走っている可能性もありますね。

 

次回はニルスの不思議な旅、です。(どのニルスでしょうか)

6月27日更新です。

インドヘむかって特製の筏で運ばれるシボレー

ジャワに到着したシボレー
(写真2点はエリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より)

1935年のシボレー一覧、トランクの形、窓の形状からこの右上のThe Chevolet Master de lux sport sedanではないかと推測しています