<世界を股にかけた男~1~>

◆ 1 ◆ 珈琲農園とケータリング

前回マレの「貴族」らしい生活について少しだけ触れましたが、彼は自国の自らの広大な領地をもっていただけではなく、他国にも拠点を作りました。貴族としての常として、彼はスウェーデン国内にもいくつかの拠点をもっていましたし、海外でも同様でした。彼が育ったかつての祖母の家は現在ハッリウィル美術館として公開されていますが、ここだけが彼の拠点ではありませんでした。パリではサンジェルマンの拠点、そしてバレエ・スエドワの拠点としてシャンゼリゼ劇場を7年の契約で借りあげたのはすでにご紹介したとおりです。

1931年からはケニアのコーヒー園を所有していました。ナイロビから8キロほど北の地で珈琲の生育が良い場所だったそうです。

映画『インドシナ』(1992年)ではゴム農園を経営する女性の一大叙事詩のような物語をカトリーヌ・ドヌーブが演じていました。私にとっては忘れられない映画の一つでありつづけていますが、あの中で描かれていたような農園経営を欧州の人達が行っていた時代でもありました。時代も1930年代でほぼ同じ頃です。

 

マレがコーヒー園を購入したのは、すでに近くには友人達が農園を経営していたことも決め手になったようです。農園近くにマレが建てたのは、白亜の宮殿というにふさわしいコロニアルなたたずまいの邸宅でした。これも貴族の常ですが、家の管理人を雇い、思い立って行っても生活ができる環境を整えていました。

今では否定的にみられる事も多い植民地、プランテーションですが、西欧の生活そのままを異国で送ろうとする姿は今の私たちからみると「おとぎ話」みたいなエピソードも沢山。どんなところへ行っても白いスーツ、というコロニアル・ファッションもあの時代ならのものと言えるでしょう。

マレはこのA.I.D.の活動が活発な時代には長期滞在することはできませんでしたが、第二次世界大戦を経たあとは状況が変わりました。

琲農園は戦争で荒廃し、別荘も荒らされ無残な姿となってしまいました。

パリのA.I.D.の活動も縮小を余儀なくされ、自身のパリの拠点も縮小し、コレクションの行方について考え始めていました。

ですが、マレがダンスへの情熱や活動をしていなかったわけではなく、相変わらずひっきりなしに資料を見にA.I.D.への訪れがあり、またマレには講演の依頼があり世界を飛び回っていました。彼は美術から活動を始めたこともあり、「なんで美術史では大学教授になれるのに、舞踊史にはないんだ」と疑問に思いその下地作りという意味でも自身の講演は積極的に受けていました。現在でも日本にはありませんね…あの世のマレと話してみたいものです。

 

 

戦後、珈琲農園は手放したものの、別荘は修復し、1950年には6カ月もその地で過ごしていたほどで、ケニアが大好きだったのです。

思い入れのある場所だったようですが、1956年には手放すことになりました。ケニアで起こっていた英国からの民族独立運動「マウ・マウ団」の活動が激しくなり、近くの人が殺害されるなど不安定な情勢になり、外国人としてそこに住んでいるだけで命の危険を感じる場所になってしまったからでした。

 

 

そんなケニアでのエピソードですが、最初に読んだとき、私の翻訳ミスかと思うようなこともしています。何と、スウェーデン、ストックホルムからケータリングをしているのです。

戦争で荒廃した家を修復した後、1949年に行われたマレの家でのパーティーの際しての事でした。アフリカまでの世界初の海を渡るケータリングだったでしょう。

これはスカンジナビア航空(SAS)がスウェーデンとケニアの初の直行便就航を宣伝するために、マレが考え提案し、実現させた事でした。日本の三越、ロンドンのハロッズのような位置付けのスウェーデンの最も有名な高級デパート「ノーディスカ・カンパニー(NK)」からのスモーガスボードなどの空輸はいい宣伝になると持ち掛けたのです。しかも、デパートの宣伝になるのだからとかなりのディスカウントをさせているのも面白い点です。

水曜日にスウェーデンを飛び立ったSASは予定通りに荷物を運び、マレの家で金曜日のパーティーに振舞われたのです。これはNKデパートにとってもモスクワのスウェーデン大使館でのパーティーへのケータリングをしのぐ最長の距離を運んだケータリングになりました。

スウェーデン、ストックホルムを訪れた時、目抜き通りにある一番大きなデパートがこちらでデザインが魅力的な品々、そして中のカフェの小エビが山盛りに載ったオープンサンドも美味しいデパートでした。

デパートのサイトもご参考までに:

https://www.nk.se/stockholm/

 

 

今回は少し話があちらこちらに行きましたが、次回もマレのまさかの世界での姿をお伝えします。

6月19日更新です。

ハッリウィル美術館リーフレットより。マレが育った家、彼は2階に自室をもっていました。左上はマレを育てた母方の祖母。
http://hallwylskamuseet.se/en

SASによってケニアに空輸されたNKデパートからのケータリング

そのケータリングが振舞われた1949年のマレの家でのパーティーの一場面

(写真2点はエリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より)

翁の面を手にもつロルフ・ド・マレ

<日本文化とのかかわり~2~>

◆ 2 ◆ 民族舞踊をおいかけて…

本題に入る前に本日(6月6日)は『人とその欲望』の初演日です。

1921年、バレエ団結成2年目の事でした。この作品には日本にも深く関係のあるポール・クローデルが深く関わっています。(ポール・クローデルは早くから日本に深い関心を寄せていただけではなく、1921年から1927年まで駐日大使として日本に赴任していました。)

ロダンの恋人で、何度が映画にもなったカミーユ・クローデル、の弟でもあります。

(個人的には1988年ブリューノ・ニュイッテン監督の『カミーユ・クローデル』のイザベル・アジャーニの印象的な演技に忘れ難いものがありますが、2018年に『ロダン~カミーユと永遠のアトリエ』、監督・脚本ジャック・ドワイヨンで公開されています。私は見損なっているのですが…。)

彼が台本を書き作曲をダリウス・ミヨーが手掛けたこの作品は実はニジンスキーに踊ってもらいたいと考え、1920年にディアギレフに聞かせたものの結局上演には至らなかったのです。

ディアギレフが興味を持たなかった作品をマレが舞台化したというわけです。オードリー・パールがデザインした階段状になった舞台や顏まで覆う衣裳は今見ても斬新です。「活人画」風と言われた振付も多いバレエ・スエドワですが、舞台構造からも衣裳からも多くの人が「バレエ」と聞いて想像する動きは出来そうにないことも分かります。

再現される日が来るのでしょうか…。

ちなみに後、1924年6月にはミヨー音楽、ココ・シャネル衣裳の『青列車』をバレエ・リュスはシャンゼリゼ劇場で初演しますが、これも偶然ではないはずです。

 

さて、ディアギレフに関心を持たれなかった作品を見事作品として上演したロルフ・ド・マレ。

前回ご紹介したように、彼はバレエへの関心を持つより早く民族舞踊に深い関心を寄せていました。これは幼少期、父に連れられて出かけたアフリカでの体験、それ以前から地主として自分の土地で日常的に見てきた季節の祭りがベースにあるようです。

 

スウェーデンの民族舞踊は後にバレエ・スエドワの演目にも登場しています。『聖ヨハネの夜』(1920)、『ダンスジル』(1921)がそれに当たります。前者はスウェーデンで実際に真夏の夜に行われるお祭りを舞台とした作品でメイポールが舞台に出る民族色を前面に打ち出した作品でしたし、後者は音楽も民族音楽をアレンジしたもので衣裳も当時実際にお祭り使われてきた衣裳ほぼそのものを使いました。(この他にもスウェーデンならではの作品が登場していますが、それはまた別の機会に。)

バレエ・スエドワに先だって、バレエ・リュスでは『クアドロ・フラメンコ』というタイトルで舞台衣裳と美術はパブロ・ピカソによってデザインされたものの、振付や音楽はスペインの酒場で踊られているそのままの「フラメンコ」を1917年に上演しています。これは私たちが現在あまり疑問にも思わない“劇場でみる「フラメンコ」”の最初の例として重要なのですが、ほとんど注目されません。

マレが上演を知らなかったわけはなく、1920年、1921年の自国の民族舞踊をほぼそのまま舞台化した時に意識にあったと考えた方が自然でしょう。同時に自分が最初に関心を持った民族舞踊を欧州の人達に見せたいという気持もあったのではないでしょうか。

 

話がそれましたが、マレは1937年の訪問で日本の文楽、歌舞伎といった舞台芸術への関心だけではなく、民族舞踊やお座敷芸にも関心を広く持ったことが分かっています。

国際文化振興会が深く関わったこの滞在時にはアーカイヴの関係と思われますが、早稲田大学にも立ち寄っていますし、大変充実した内容の講演を行った事も分かっています。第二次世界大戦の気配がじわじわと広がる中での滞在でもありました。日本での舞台鑑賞の詳細についてはまだ調査の必要があります。

帰国後、1939年にはこの取材を大いに生かす形で日本をテーマにした展示を行い、『A.I.D.』では日本特集を組んでいます。この時には藤娘、歌舞伎の美術デザイン画、能衣装、文楽人形、日本舞踊の舞台で使用する小物といった実際に舞台に関わるものだけではなく、写真、プログラム、日本の舞踊について本も展示されました。日本の舞踊については通り一遍の紹介ではなく、ダンカン舞踊や来日したサカロフ夫妻、アンナ・パヴロワ、ミュージック・ホールの紹介、民族舞踊と広い視点でされていたこともマレならではだと言えるでしょう。

展覧会に合わせて、他の展覧会でもそうであったようにその国の音楽、日本の場合は社民線の音楽などだったようですが、が流れ、日本舞踊の会、それから「剣道」のプレゼンテーションも行われたそうです。

 

マレは日本だけが好きだったというわけではなく、当時のヨーロッパの芸術関係者が興味を持つ形での「オリエンタル」としての日本への関心よりは深い視点をもっていたように感じます。

 

ですが、マレのオリエンタル趣味はかなり高じていて、生活にも及んでいたことが分かっています。彼は当時の貴族(今でもその生活パターンを持ち続けている貴族も多くはありませんが存在します)の常として各地に拠点を作りましたが、パリで仕事をすると決めた時にまず拠点とする家を探しました。そしてサンジェルマン地区に構えた家で座るマレの姿を画家ニルス・フォン・ダルデルが描いているのですが、そこに鮮やかな龍の模様のタペストリーなど非常に「オリエンタル」な雰囲気の内装が描かれています。日本ではなく中国のイメージですが・・

ダルデルが創作したのではなく、残された室内写真を見るとかなり写実的に描いたことが分かっています。

そんなマレの驚くような生活を次回からご紹介します。

 

次回は6月13日配信です。

翁の面を手にもつロルフ・ド・マレ

翁の面を手にもつロルフ・ド・マレ(「エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』2009年、より」

ダンスジル

『ダンスジル』の衣裳2点、女性用はカリーナ・アリが着用したもの、2014年のパリ・オペラ座博物館展示より

人とその欲望1

『人とその欲望』のオードリー・パールによる美術・衣裳デザイン
衣裳も面白いのでまたどこかで

 

6回日本展

「日本展」の時の会場の様子、藤娘が見えます(”les Archies internationals de la danse 1931-1952, 2006のp.60より)

note始めました。

今始めるべき!というお知恵をいただき、note始めました。

HPよりもその時ならでは、な話題を中心にご紹介しています。

特に今は限定公開の素敵な舞台作品が沢山。全部は無理ですし、情報が山ほど入る今だからこそ、私のアンテナにかかったこれは!というものをご紹介しています。

よろしければHPと合わせてごらんくださいませ。

https://note.com/naokohaga

 

プロフィールアイコンは見てすぐわかる方もいらっしゃるかもしれませんが、パリ・オペラ座の中。うってつけのが写真フォルダの中から見つかり、一人ほくほくしました。

バレエ・スエドワ100周年記念公演@シャンゼリゼ劇場

1937年のシャンゼリゼ劇場プログラム表紙

2020-2021のシーズンのパリの劇場プログラムが続々発表されています。

シャンゼリゼ劇場も発表されました。

 

シャンゼリゼ劇場はロルフ・ド・マレが借り上げてバレエ・スエドワの本拠地としていた劇場。

バレエ・スエドワ関係の上演は2つ入っていました。

 

1.10月11日『エッフェル塔の花嫁花婿』へのオマージュ作品が若年年齢層向け公演として

11:00/15:00

1973年にJean Christophe Averty(1928~2017)によってつくられたアニメーションです。これは未見です。

https://www.jeanine-roze-production.com/spectacle/les-maries-de-la-tour-eiffel-2/

これかもしれません。

 

2.スウェーデン王立バレエ団の『バレエ・スエドワ・プログラム』上演

内容は9月にストックホルム王立劇場初演と同じです。

10月15,16,17日20:00/ 18日16:00の4公演

初演された劇場でも見たいけれど、本国でも見たい…、いっそのこと両方?悩ましいところです。

https://2021.theatrechampselysees.fr/saison/danse-1/royal-swedish-ballet-nicolas-le-riche

ちなみにスウェーデン王立バレエ団には今期からニコラ・ル・リッシュが芸術監督に就任しています。90年代のパリ・オペラ座の黄金時代のダンサーの一人です。彼はジェローム・ロビンスの『牧神の午後』が個人的には忘れられない公演の一つです。

 

チケット発売は9月なので、スウェーデンで見てから考えてもいいのかもしれません。そもそも本当に上演が実現するのかもまだまだ予断を許しませんが、ここは希望的観測であっても夢を見ておきたいところ。

 

この他シャンゼリゼ劇場のプログラムではザハロワがガブリエル・シャネルを踊るという作品も見てみたいですね。

10月24日 20:00/ 10月25日 16:00の2回公演

85点の衣裳がシャネル社によってこの作品のために作られたそう。シャネルはバレエとは切っても切れない縁があるので、『青列車』も2024年なら100周年、上演してほしいなと思ってしまいますが…。

https://2021.theatrechampselysees.fr/saison/danse-1/svetlana-zakharova-project

 

欧州の劇場がどのように今後対策をとって再開していくのかはっきりしない点もありますが、Show must go on…です。

<日本文化とのかかわり~1~>

◆ 1 ◆「櫻を見る會」に参加したマレ

ロルフ・ド・マレは生涯沢山の旅をしました。最初のヨーロッパ以外への長旅は1910年、マレが22歳の時、父に連れられて出かけたインドでした。この旅はマレにとって忘れられないものになりました。父ヘンリックが自らの50歳の誕生日を息子と迎える日程で計画したものでした。50歳の誕生日はナポリからエジプトのポートサイドに向けた船の中、シャンパンで祝われたそう。

豪華客船に汽車を乗り継ぐ旅は2カ月に及ぶもので、インドでは食後にインド舞踊を楽しんだことも分かっています。こうした体験が民族舞踊への関心を育んだのです。

翌1911年にはシャム国王のおとぎ話のような戴冠式に出席した足で初めて日本を訪れています。この時は外交使節の身分で、日本では日光や京都にあそび、横浜港から米国に向けて出港しています。

 

1917年は第一次世界大戦のさなかでしたが、彼らが立ち寄った米国ではメトロポリタン・オペラ・ハウスでの公演も行われていましたし、パーティーも通常通り開催されていました。この旅にはマレの当時の恋人で生涯の友となったニルス・フォン・ダルデルを伴っていましたが、日本へ渡る前にハヴァナですでに伝説的なダンサーだったアンナ・パヴロワの舞台を初めて見たこともわかっています。

 

1911、1917年に際しては、日本駐在中だったスウェーデン大使グスタフ・ヴァレンヴェルグに紹介を受けて、主に妻と娘が案内役を務めました。

1917年の滞在時はちょうど桜のシーズンだったこともあり、大使の紹介で「櫻を見る会」にも参加しています。

現在日本の政界を騒がせている「桜を見る会」と名前は同じですが、本来の形での開催で性質は全く違います。現在、票集めのための極めてゆがんだ形で使われている「櫻を見る会」は元々皇室主催で行われたもので、マレが参加した1917年は新宿御苑が会場で、目的も「国際親善」でした。ドレスコードも「フロック・コートにシルクハット着用、陸海軍は制服着用、」また「モーニング」は不可という興味深い記載が招待状に見られます。14:30集合、雨天は中止だけれど御苑の桜を見ることはできると招待状に書かれています。

今同じようには難しいでしょうけれど、桜には票集めよりは国際親善の方が似合いそうですね。

 

さて、桜も楽しんだ滞在を終えた1917年の滞在ではマレは5月に帰国しましたが、ニルス・フォン・ダルデルは何と日本画を学びたいと、更に5カ月も滞在し、夏は北海道に大使の家族の別荘に避暑に出かけたことも分かっています。日本ではほとんど知られていないニルス・フォン・ダルデルですが、スウェーデンの代表的な重要な画家です。

本格的に日本画を学び実践もしたとの事で掲載した写真も残っているのですが、その画家が誰なのかが未だに美術史の世界でも分からないそうです。これをご覧になって「○○ではないか」とピンときた方は是非教えていただけましたら幸いです。

 

その後マレが来日したのは1937年、これが彼にとっては最後の世界旅行ともなりました。

1936年にはジャン・コクトーが 来日もしていて案外この時期日本には1920年代の重要な人達の来日があるのです。(ちなみにコクトーも藤田嗣治と日本で再会しています。藤田のネットワークも感じさせますね。)

マレはすでにA.I.D.を立ち上げた後でしたので、積極的に舞台芸術の関係者に会ったり、資料を持ち帰ったりしています。文楽や歌舞伎を持ち込んだ機材で撮影をしており、今でも見ることができます。詳細が分かっていない部分もあり、専門家の調査が待たれます。

この滞在は国際文化振興会(現在の国際交流基金のようです)がアレンジを手伝っています。そして、1939年5月から6月にかけてA.I.D.では「日本におけるダンス」という展覧会が開催され、機関誌A.I.D.でも日本特集号が発行されました。

日本の舞踊への彼の視線は民族舞踊への視線でもありましたが、マレの極めて現代的なところはそれが西欧的ヒエラルキーに基づく「民族舞踊」ではなかった点です。バレエ・スエドワの活動からもA.I.D.の活動からもそれが見えてきます。

 

次回は6月6日更新。民族舞踊を追いかけたマレの姿です。

 

桜を見る会の招待状

桜を見る会の招待状

5回藤田との再会

藤田との再会も実現した。どんな話をしたのか気になります。場所は銀座の「料亭花月」

展覧会に合わせて発行されたA.I.D.機関誌も日本特集に

1917年の滞在時の写真、この画家は誰なのか謎を解きたい。ご協力いただけたら幸いです。

写真は4点共エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』より

<世界初の男マレ ~2~>

◆ 2 ◆ 世界初のダンス・アーカイヴ創設

ロルフ・ド・マレは前回ご紹介したコンクールだけではなく、沢山の「世界初」を手掛けた人物でした。前回ご紹介したコンクールと並んで、現在の目からみても重要で記憶されるべき仕事に世界初のダンス・アーカイヴの創設があげられます。

 

何より重要なのは、「アーカイヴ」という概念を初めてダンスにもたらし、1930年代にマレがこのような組織を私費で作った事でしょう。
当初マレはバレエ・スエドワの活動拠点を置いていた都市の最高峰の劇場、パリ・オペラ座へのコレクションの寄贈も検討しました。しかし、当時パリ・オペラ座の図書館、パリ・オペラ座のコレクションの両方の機関は国家芸術局の管轄で自由な活動ができる状態ではありませんでした。(1935年に再編成されて国立図書館管轄に変わりました。)マレの考えた「ダンス・アーカイヴ」の構想からは遠い存在だったのです。

 

そこでマレは独自の組織をつくることにしました。A.I.D.(Archives International de la Danseの略称、意味は国際ダンス・アーカイヴ)を始めるにあたってマレは宣言を出しました。それによれば、バレエ・スエドワの活動の総合的な記録とダンサー・振付家ボルランの記念として、そして総合的なダンスの場としてこの組織を立ち上げたのです。

 

A.I.D.には民族誌博物館も併設されていました。この民族舞踊の資料も実は極めて重要です。例えばマレがその収集のために訪れた時に既に失われていた民族舞踊を覚えている人をその一族の中で探し出して思い出して踊ってもらったこともありました。そうした現在では完全に失われた踊りの貴重な記録の宝庫です。バレエの一部、民族舞踊は映像に収められ、現在映像はストックホルムのダンス博物館が所蔵し、予約すれば現地で見ることができます。一部は展覧会に合わせたり、テーマが設けられたりして、会場で放映もされています。

 

さて、A.I.D.は1931年6月19日に発表され、1933年にオープンしました。
パリの高級住宅街16区のRue Vitalに、建築家スタニスラス・ランダウのデザインでアーカイヴのために新しい建物と空間が作られたのです。本気度が分かると言えるでしょう。
道に面した小さな扉から通路を抜けて入ると右手に中庭が広がり、そこを抜けると広い会場につきます。そこはレセプションや講演、時に展示室の一部として使われました。建物は2階建てで中には資料の閲覧室、資料保管室、バレエ・スエドワの常設展示会場、企画展示会場、そしてワークショップや100人が入れる上演可能な空間、映写機も用意されていました。実際、オープン後は頻繁に公演、講演、ワークショップが開催されました。ワークショップが開かれた形で開催されたのもここが初めてでした。
中庭には画家・彫刻家として活躍していたマレの母エレンによるレリーフも設置されました。エレンは息子マレの家庭教師と恋に落ちて、駆け落ちしたなかなか情熱的な女性でした。いわば息子を捨てる形での出奔でしたが、マレとエレンは終生あたたかな良い関係であり続けました。また、元家庭教師だったジョニーは美術史の大学教授となって良き伴侶として、またマレの良き相談相手としていい関係を保ち続けました。

 

さて、このA.I.D.で行われた展覧会、講演はバレエ・スエドワやパヴロワ、フォーキン、ジョゼフィン・ベーカーといった自ら関わった存在から各国の民族舞踊、舞踊に関する書籍についてまでと極めて多彩でした。ラインナップからはダンスの全てを紹介しようとする気概が感じられます。
日本からも少なからず研究者や劇場関係者が訪れた事が分かっています。また、日本を含めた海外からの郵送での問い合わせにも丁寧に対応していたことも分かっています。こうした極めて現代的な開かれた組織が個人の資金で運営されていたというのは驚くべき事です。

 

また機関誌も1932年から1936年の間19冊が発行されました。その内容もたいへん幅広くマレの考えていたダンスの姿が伝わってきます。
かつてはパリ・オペラ座とストックホルムのダンス博物館を合わせてみないと全巻見られなかったこの雑誌も今は下記のサイトで全ページが公開されています。
http://mediatheque.cnd.fr/spip.php?page=archives-internationales-de-la-danse

 

残念ながらアーカイヴの維持は経済的な側面等から難しくなり、第二次世界大戦後1952年に半分がパリ・オペラ座図書館へ寄贈され、半分を納め公開する場としてストックホルムにダンス博物館(1953年)が開館しました。半分で博物館が作られたということからもコレクションの規模の大きさが想像できるのではないでしょうか。パリ・オペラ座にコレクションのどの部分を納めるか、どこに同展示するかといったやり取りもなかなかドラマティックで面白いのですが、長くなってしまうので別の機会にご紹介できたらと思います。
ちなみに私が初めて「A.I.D.」を知ったのはパリ・オペラ座図書館のバレエ・リュスの資料を調査し始めた1990年代終わりの頃、請求して出てくる資料の多くにスタイリッシュな「A.I.D.」というスタンプ(2種ありましたがどちらもスタイリッシュでした)が押されているのを見て何だろう?と思ったことがきっかけでした。
この「A.I.D.」の先鋭的な活動を今継承しているところはありません。ダンスのアーカイヴを考えるとき、彼らの活動から学ぶべきところもまだあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

 

次回は5月30日配信。
マレが日本を訪れ「櫻を見る会」に参加したお話しなど。

 

※画像はすべてfrom Naoko Haga Collection

AID所在地の現在。残念ながら取り壊され、このようなアパルトマンになっています。今でも高級住宅地。歩いてエッフェル塔まで行かれる、そんな場所です。

AID跡地を訪れた日にフィリップ・ドゥクフレを見たのですが、突然の雨に飛び立った鳥たちが映画のワンシーンのようでした。

機関誌の表紙、前回の3回目のコンクール表紙と同じモチーフが使われています

A.I.D.のチラシ、ボクシングとダンスという斬新な視点、日本がテーマの回もありました

<世界初の男マレ ~1~>

◆ 1 ◆ 世界初の国際振付コンクール開催

 

 

現在、日本ではバレエについて一般の雑誌やTVが取り上げる一番頻度の高いトピックスはコンクールの入賞です。
では、そのコンクールがいつから始まったのか、と聞かれると即答できる人はわずかなのではないでしょうか。

 

実は「初」の国際振付コンクールを開催したのはロルフ・ド・マレ、1932年7月2~4日の事でした。これは少なくとももう少し知られてもいいのではないか、とコンクールの話が出る度に私はかなしく思うのですけれど…。

 

ではそれまでなぜコンクールがなかったのか? それはバレエの成り立ちを考えると分かるのですが、バレエ・リュス登場までバレエは基本的に劇場付属のバレエ・カンパニーが基本でした。インディペンデントなプロフェッショナル・ダンサーはほとんどおらず、ましてや振付のコンクールなど誰も必要を感じていなかったからです。
マレがこのコンクールを立ち上げようと思った理由は最愛(と言っていいでしょう)の恋人ジャン・ボルランの米国で客死でした。彼の記念として次回紹介する国際バレエ・アーカイヴと共に構想したのでした。
コンクールの名前こそ「国際振付コンクール」とありますが、内情は振付に限ったものではなく、今のバレエ・コンクールのようなダンサーをメインにした賞も、美術・衣裳の賞も設定された大変視野の広いものでした。
また出場者たちは交通費こそ自費でしたが、宿泊、食事はコンクール主催者によって支払われるという条件の良いものでした。

 

評価基準も大変明確に下記のような6点とされました。1.振付、2. アンサンブルの踊り、3.個人の踊り、4.衣裳、5.音楽、6.バレエのアンサンブル。それぞれの配分は振付、20ポイント、アンサンブルの踊り、20ポイント、3.個人の踊り、15ポイント、バレエのアンサンブル、20ポイント、残りの25ポイントは審査員の個人の裁量というものでした。
この評価基準を見ても、コンクールが広い視線を保とうとしたこと、そして評価基準はあくまでもダンスであったこと、バレエという視点も明確だった事がわかります。

 

また、これは現在のダンス、バレエでしばしば話題になる「振付とは?」という問題とも深く関わると思うのですが、コンクールでは最低6人という規定がありました。現在振付コンクールをすると応募としてはかなりの割合を占める自分自身に振付けて踊るソロでは振付とみなさないという考えだったのでしょう。他者の身体に移せる動きというのは私も「振付」という概念の中で重要な要素なのではないかと感じています。
審査委員は全部で20名。とても長くなってしまうので一部をあげるにとどめますが、バレエ・シーンの重要人物が並ぶ顔ぶれを見ているだけでも色々と楽しい想像が広がります。
バレエ・リュスをパリに初めて紹介した興行主でシャンゼリゼ劇場を創設して破産したガブリエル・アストリュク、ドイツ表現主義舞踊で必ず出てくるルドルフ・フォン・ラバン、かつてロシアでディアギレフを『帝室劇場年鑑』の編集担当としてロシア帝室劇場に招き、ダルクローズに踊りを習って自ら踊り、1926年にパリに移住していたセルジュ・ヴォルコンスキー公爵、バレエ・リュスでも活躍した指揮者ウラジミール・ヴォルシュマン、画家フェルナン・レジェ、作曲家フロラン・シュミット、1930年に引退したパリ・オペラ座の今でいうエトワール(当時はプリマ・バレリーナという称号)だったカルロッタ・ザンベリ、バレエ・リュスにも参加、アンナ・パヴロワのパートナーとしても知られたボリショイ・バレエ団出身アレクサンドル・ヴォリーニンらがいました。ヴォリーニンの元からは『若者と死』で一躍名をあげたジャン・バビレやアンドレ・エグレフスキー、ジジ・ジャンメール、デヴィッド・リシーンといった人達が育っていますから、もう少し顧みられてもいい人物でもあります。
さて、コンクールですが、出場したのは7月2日7組、3日6組、4日6組の系19組、そして最終日の最後はガラ公演が行われました。作品はバレエ、今でいうコンテンポラリー・ダンス的な作品までが並びました。
賞金もなかなか豪華で金賞25000フラン、銀賞10000フラン。この他に「小さなダンサーたちのため」のコンクールも開催されています。4歳から12歳までのダンサー達に出場権がああり、1位3000フラン、2位1500フラン、3位750フランと子供相手にはなかなかの金額でした。

 

このコンクールは第二次世界大戦がなければそのままシャンゼリゼ劇場で開催が続いてパリのコンクールとして定着した可能性も否定できませんから、戦争は様々に文化を中断するのだと改めて思います。
1回目はシャンゼリゼ劇場、2回目は1945年にスウェーデンで11人の振付家が出場して開催、3回目は1947年にコペンハーゲンで25人の振付家による24作品が賞を競いました。この3回目は後に『令嬢ジュリー』の振付で知られることになるブルギット・クルベリも出場しており、受賞を有力視されていたのですが、上演時間の規定20分を超えたために受賞することはありませんでした。審査員の厳密さそしてマレの考えもあったようです。自身の国の作品をひきたてるよりその賞にふさわしい作品をというマレの意思を感じるエピソードです。

 

もっとも華々しく開幕した第1回目で金賞を受賞したのが、『緑のテーブル』です。日本のスターダンサーズ・バレエ団がレパートリーとして上演したのを見た方もいらっしゃるでしょう。今年もCOVID19 がなければ上演予定でした。(今後の再演を期待しましょう)

それにしても『緑のテーブル』は今でも踊り継がれる戦争を正面から扱った極めて珍しいバレエ作品ですが、それが世に出るきっかけとなったこの国際振付コンクールがこれほど無視されているのは不思議でしかありません。
ここを読んでくださった方々は是非覚えておいていただけたら幸いです。

 

次回は5月23日配信、マレが手掛けたもう一つの「初」をお届けします。

 

 

 

リンク:
動画はいずれも公益財団法人スターダンサーズ・バレエ団によるもの

COVID19禍の今だからこその『緑のテーブル』@ home/The Green Table at home
公開URL:https://youtu.be/PIZ53Imn55w

 

公演予告のページにも一部動画があります。
https://www.sdballet.com/company/c_archive/p2020/2003_dancespeaks/

1932年の世界初のコンクール、プログラム

1947年、コペンハーゲン王立劇場での最後のコンクールプログラム表紙

中には見た人の受賞の書き込みもあり、臨場感が感じられます

2009年に発行されたエリック・ナスランド『ロルフ・ド・マレ』

<そもそもバレエ・スエドワって?>~2~

 

◆ 2 ◆ 100周年に寄せて+今日はマレのバースデー!

 

今年はバレエ・スエドワ1920年の結成100周年です。そして本日(5月9日)はロルフ・ド・マレの132回目のお誕生日です!(1888年生まれ、1964年死去)

 

私はこの連休が終わった後、5月15日に初日を迎える『スケーティング・リンク』の再現上演のため13日からストックホルム入りする予定でした。1922年に初演されたこのアーサー・オネゲル音楽、フェルナン・レジェ美術・衣裳、ジャン・ボルラン振付の作品はストックホルム王立オペラ・ハウスで上演予定でした。

 

COVID19への対応も欧州とは違う独自路線をとっているスウェーデン、万が一の可能性を祈りましたが4月になって中止が発表されました。状況を鑑みれば仕方がない事とはいえ、私にとっては1998年から実に21年もの間待ち望んだ再現上演でしたから、心底残念なお知らせでした。

1998年6月5~13日の再現上演の際はちょうどセゾン美術館でのバレエ・リュス展が開幕中で、ギャラリートークの予定もありストックホルムへ行くことができなかったのです。薄井憲二さんがご覧になられて、左の写真の公演プログラムを展覧会会場までもって来て下さった事に大感激致しました。今でも大切にしています。

 

その時の演目は『ウィズイン・ザ・クォータ』『エル・グレコ』『ダルヴィーシュ』、『スケーティング・リンク』の4つでどれもバレエ・スエドワ作品として上演されたジャン・ボルラン振付作品。その際、『エル・グレコ』だけイヴォ・クラメール振付の新作、他は再現上演でした。薄井さんの評価はあまり芳しくありませんでしたが、バレエ・スエドワなんて世界でやっている人はほとんどいないからがんばりなさい、と励ましのお言葉をいただいたのを覚えています。

それから今年まで再演されることはなかったのです。

 

1998年のセゾン美術館でのバレエ・リュス展は私のデビュー仕事といってもいいものでしたが、その時出品作品にはバレエ・スエドワのものもわずかながら含まれていました。そこでキュレーターの一條彰子さんからの嬉しいお声がけでカタログにバレエ・スエドワについての小文「時代を駆け抜けたバレエ団 ロルフ・ド・マレのバレエ・スエドワ」が載りました。

 

ただ、実はあの文章には間違いがありました。当時はどこをどう探しても彼が高位の貴族だという事は分からず、大地主、土地改良者、という説明しか見つからず、とにかく大金持ちだったことは状況証拠から明らかだけれど素性が分からない状況だったのです。ネットも今ほど調べることが簡単ではありませんでしたし、バレエ辞典も活動については触れられたものはあっても、マレ個人については謎に包まれたままの時代でした。彼の華麗なる生涯が明らかになったのはエリック・ナスランドが書いた大著で決定書『ロルフ・ド・マレ~アート・コレクター、バレエ・ディレクター、ミュージアム・クリエーター』を待たなければならなかったのですから随分長い事かかりました。

ともあれ、今年は100周年。この機会に日本でも少しでも多くの人にバレエ・スエドワの魅力が伝わればと思ってこの連載を始めました。

 

黄信号が灯り始めてはいるものの、予定では11月にストックホルムのダンス博物館でバレエ・スエドワ展が開催されますし、日本でもバレエ・スエドワの縁があって実現した1946年初演の藤田嗣治舞台美術による『白鳥の湖』が7月18日、19日上演予定です。

実現を祈りつつ…。

 

次回は516日配信。 マレが手掛けた「世界初」とは何だったのでしょうか?

 

 

オフィシャルウェブサイト

1998年のバレエ・スエドワ公演のプログラム表紙

「バレエ・スエドワ再現上演、スウェーデン王立バレエ団プログラム表紙」(1998年、ストックホルム)

2009年に発行されたエリック・ナスランド『ロルフ・ド・マレ』

「エリック・ナスランド著『ロルフ・ド・マレ』、2009

中止でなくて延期! バレエ・スエドワ100周年公演。

 

5月予定だった100周年公演のキャンセルを受けもう5年後にならないとみられないかもしれないと覚悟していたのですが、サイトに9月公演のニュースが!

 

9月4~24日に現状なら全7公演の予定との事。嬉しいニュース、実現しますように!

 

リンク:

https://www.operan.se/en/repertoire/les-ballets-suedois-100-years/

<そもそもバレエ・スエドワって?>~1~

 

◆ 1 ◆ バレエ・スエドワって?

バレエ・スエドワとは何でしょうか。

 

Ballet Suedoisというフランス語で、スウェーデン・バレエもしくはスウェーデンのバレエ団という普通名詞です。

バレエに詳しい方はあれ?似ていない?と思う存在があるかもしれませんね。

ディアギレフが主宰したバレエ・リュス(Ballets Russes)です。

ご推察の通り、バレエ・リュスに倣う形で名前を付けたのです。ではバレエ・リュスとも関係があるのでしょうか?

 

バレエ・スエドワを結成しようとマレが考えたのはバレエ・リュスを成功に導いた振付家ミハイル・フォーキンと1913年に会ったという縁はあります。(1911年からストックホルムに定期的に招かれていた彼は第一次世界大戦中、移住していたこともあります)。

大金持で芸術的なセンスを持つマレと出会い、交流するうちにバレエ団を結成してはどうかと持ち掛け、それが実現したのです。マレの恋人はジャン・ボルランと言う若いスウェーデンのストックホルム王立劇場のバレエ・ダンサーでした。彼のためにもそれは素晴らしいだろうと思ったマレはバレエ団を結成する決意をしました。

 

マレはまずパリに本拠地となる劇場としてシャンゼリゼ劇場を7年の契約で借り上げました。そして自らの居をパリ7区、サン・シモン通りに決め、本格的に活動の準備を始めました。まず恒久的に利用できる場を用意したという点においては従来のバレエ・カンパニーの運営イメージにのっとっているということができるでしょう。

まず、ジャン・ボルラン個人のリサイタルという形で3月に公演を行った後、1920年10月23日初めての公演(ドレス・リハーサル、今で言うゲネ・プロです)が行われました。

バレエ・リュスの初日がそうであったように、パリ中の芸術関係者並びに社交界のメンバーが勢ぞろいした豪華な夜となりました。評価はまちまちでしたが、話題になったことは確かですし、バレエ・リュスよりも新しいと夢中になる観客もいました。

今では考えられないのですが、当時は日本の一般紙にもバレエ・スエドワの上演は記事になっています。日本の西欧の芸術動向への関心は現在の比ではありませんでしたが、それを差し引いても関心の高さ、話題性がうかがえます。

バレエ・スエドワのメンバーはスウェーデン、ストックホルムと隣国デンマークの王室バレエ団から集められ、ディアギレフがそうであったように「盗んだ」と一部では報道されました。それは王室バレエ団のメンバーというのは基本的に付属バレエ団で教育を受け育った存在だったからでした。

彼らの活動は1925年まで続きました。

 

初演した作品はいくつかのダンス場面を集めた『ディヴェルティスマン』、かつてニジンスキーが初演したドビュッシー作曲による『遊戯』をジャンヌ・ランバンの衣裳で、スペインを舞台としたアルベニス作曲による『イベリア』、そしてスウェーデンのお祭りの夜をテーマにした『聖ヨハネの夜』で、振付の全ては解散までジャン・ボルランが手掛けました。当時、ジャンは27歳、マレ32歳でした。

その活動は唯一ディアギレフが本気でライバルと感じるほどでした。初演でニジンスキーがかつて振付けて上演が絶えていた『遊戯』がラインナップに入っていた点もディアギレフには対抗心を強く感じさせたことでしょうし、マレも意識したからこその演目だったでしょう。

それだけでなく、ディアギレフが受け入れられなかった映像や黒人文化、ジャズを積極的に取り入れた事も若手台頭と意識されたかもしれません。ディアギレフは当時48歳、マレとは一回り以上年配でした。ディアギレフは映像を信用しなかったため、自らのカンパニーの作品に取り入れるのは遅くまたただ1回1928年『オード』のオープニングだけでした。バレエ・スエドワでは1925年に『本日休演』の中でルネ・クレールの「幕間」が作品の一部として撮影、制作され上演されましたし、初めて舞台の上で着替えを行ったり、本格的なジャズをバレエにしたり、様々な「初」を行ったバレエ団でした。早ければ価値があるというわけではありませんが、新しい事を躊躇なく取り入れるのは感覚の若さもあったでしょう。

 

バレエ・スエドワを紹介するとき、「バレエ・リュス」が登場するのは、このカンパニーが基本的にバレエ・リュスなしには生まれない存在であったこと、そのため比較せずにその特徴や魅力を浮き彫りにすることができないからです。

ちなみに私がバレエ・スエドワに出会ったのはバレエ・リュスの研究が縁でした。大学3年、研究を始めて程なくバレエ・リュスのライバルとしてバレエ・スエドワとソワレ・ド・パリの名が挙がっていたのですが、当時は探してもまとまった資料は1970年にパリ・オペラ座で行われた展覧会の薄めのカタログと1990年に発行されたベント・ヘーガー著『バレエ・スエドワ』含めごく僅かでした。

今でも残念ながら日本語でまとまって読むことのできるバレエ・スエドワの本はありません。その魅力的な姿にここで出会っていただき、一人でも多くの方に魅力が伝えられましたら幸いです。

 

次回は5月9日の配信予定です。よろしくお願いいたします。

 

 

ベント・ヘーガー『バレエ・リュス』(1992年)表紙はフェルナン・レジェ『スケーティング・リンク』

バレエ・スエドワの主宰者ロルフ・ド・マレ

『遊戯』を踊るジャン・ボルラン/”Comoedia Illustre” 1920年11月20日号
バレエ・スエドワの唯一の振付家、男性プリンシパル、バレエ教師