前評判も高く、見たいと思いながらなかなか予定が合わなかったイングリッシュ・ナショナル・バレエ団のアクラム・カーン振付『ジゼル』が日本から数時間の香港で上演されると知り、見に行きました。
大学の講義があった関係で初日のアリーナ・コジョカルがジゼルを踊る回だけは見られなかったのですが、4公演のうち3公演、同じ作品をキャスト違いで3回という作品を楽しむのに個人的にはベストと思える条件で見ることができました。
2016年の初演時の英国での評判は、絶賛もあった一方でバレエ・ダンサーを使いこなせていないという評もあり、必ずしも高いばかりではなかったのも事実です。
ですが、実際に公演を見て思ったのは、新しい時代のバレエ団の目指すべき方向、トライアルとしても非常に価値のある作品だという事です。
日本でも出発前にNHKで放映されたのでご覧になられた方も多いと思うのですが、映像でははっきり見えないところも多いことに気付かされました。舞台全体が暗めの照明のため映像では移りにくい点があるようです。特に雄弁のその場面を彩る美術は画面では分かりにくかったように思います。ハッとさせられる照明と美術の効果がその場面をしっかり物語っていて印象に残りました。
この『ジゼル』の一つのキーワードは「outcast~のけ者にされた人、追放者~」です。衣料品工場で働く女たちが工場閉鎖に伴って仕事を失い、実は地主階級(支配階級)であるアルブレヒトがそうした女性の一人ジゼルと恋に落ち、ジゼルはお腹に新しい生命を宿しているという設定。それにも関わらずアルブレヒトは婚約者であり、同じ地主階級に属するバチルダの元に戻って行きます。その背景にはバチルダの父親の圧倒的な力がある事が通常以上に表現されますが、身分を超えた恋が実らないという点では元来の『ジゼル』と同じ構造です。またヒラリオンは元来の森番としてではなく、労働者たちと地主たちの間を抜け目なく生き抜く「フィクサー」として描かれ、決して最近の「いい人」的な存在でも昔描かれていたような「死んでも仕方のない階級の男」としても描かれておらず、現在の観客に受け入れやすい設定になっていました。
ジゼルがアルブレヒトの裏切りを知って狂い、死ぬのも同じですが、これは実はヒラリオンが手を下したと言う事が2幕で描かれます。アルブレヒトはジゼルを本当に身体ごと振り払って拒絶するさまがはっきりしているなど基本的に物語を知らなくても分かりやすい振付になっているのも現代の作品らしいところ。死んでからウィリの女王ミルタによってまるで電気ショックのような表現で目覚めさせられる振付は痛々しさを伴っていて、他のウィリ達含めたこの世へ、そして自分を殺した男たちへの怨念にも近い憎悪はそうした目覚めたくなかったのに目覚めさせられた事とも関係がありそうです。
ヒラリオンはジゼルを悼む気持ちはありますが、実際手を下した者、お腹にいた子供とジゼル両方の殺人者としてウィリ達によって殺されます。また原作にはなく、アクラム版のビジュアルイメージでも象徴的に使われていた、長い杖のような棒(これはボーダー、力、剣、針と様々なものの象徴でしょう)とトゥで作られる身体の「I」のラインが強さ、怖さ、恨みをといったものを巧く表現していました。こうしたトゥと使った「I」のラインを強調する振付はニジンスカから始まった流れに位置付けることができそうです。その棒でアルブレヒトは手の平を刺されるなどはっきりとした攻撃の場面、そしてジゼルはミルタによって自分の手でアルブレヒトを殺すよう何度も迫られます。それにも関わらず守り通すのは元来の『ジゼル』と同じです。自分を捨てはしたけれど、殺した男ではなく、愛した存在であったこと、負の連鎖を止めようとする姿にも見えます。それは現代社会の負の気持ち連鎖を断ち切る運動とも重なって見えてきます。
そうして命は守られたアルブレヒトですが、彼は象徴的な壁の内側、「outcast」の側に残されるという結末。原作ではバチルダと結婚して終わる、最近ではお墓の前でジゼルを悼みながら終わるというのとも違う、新たな孤独、新たな「outcast」を生んだ恋として描かれていて印象的でした。
シンプルとも言える舞台後方の可動式で時に回転する1枚の厚い壁というインパクトのある美術は照明の効果と相まってそれぞれの場面を浮かび上がらせ、語らせていました。音楽は時折耳慣れた『ジゼル』の旋律が響くものの、基本的には新しく作曲された音楽で、効果音や、サイレンのような音(角笛の部分イメージ)が使われるなどオーケストラを入れながらもハイブリッドなもので、作品世界を盛り上げていました。元来の『ジゼル』のイメージで見る人にも分かりやすいと言えそう。衣裳・美術は香港出身のTim Yipによるもので身分差の見せ方もうまく、効果的でした。個人的には事前にみたYoutubeでのウィリ達の衣裳の裾の細かな「汚し」作業が生きた効果に釘づけでした。裾をとても細かくハサミで切り取り、さらにヤスリをかけて薄くすることでふわっとした広がりが生まれ、踊った時に何とも儚く美しかったのです。
ロマンティック・チュチュでは出せない、アクラム版の設定である労働者である女性達の労働によって擦り切れたともみなす事のできる衣裳とこの世のものではない浮遊感の両方を表現することに成功していました。淡いブルーをベースに泥水を吸ったようなグラデーションのある衣裳の色で決して美しいだけでないのですが、それが新しい『ジゼル』を成立させていました。
男性、自分たちを殺した社会、に対しての怒りの表現が強いウィリでしたが、照明によって消え入りそうに見える裾のふわふわとした感じが愛の儚さであったり、この世から離れたふと消えゆく存在としてのジゼルを際立たせていました。
3つの配役から作品の魅力と可能性の両方を感じることができました。同じ振付でも違うのがやはりバレエの醍醐味の一つ。
刃のようなキレのある動きを見せる猿橋賢のヒラリオンも強い印象を残しましたし、エリック・ウールハウスのヒラリオンはより縦のラインを強く感じさせる表現で自分の存在の在り方そのものも分断されている事まで表現していると感じました。ミルタは一番冷徹な印象を与えたのはStina Qugebeur。SarahKundiはそうしなくてはならない存在だから行動するものの、底に悲しみと矛盾を抱えた存在として演じていると感じました。アルブレヒトは圧倒的にIsaac Hernándezの表現が胸に迫りました。本当に愛おしくジゼルを思い、幸福感溢れる前半の表現が印象的だからこそ、ウィリになったジゼルにどうぞ自分を殺してくれと、力なく腕を開いて見せる場面が浮き上がりました。またこの腕を両方に軽く開いて見せる動きは最初にジゼルと動きが初めて連動する、つまり心のつながりができた瞬間の動きでもあって、胸に迫る場面でした。
アクラム・カーンならではのまるでスクラムのように組んだダンサー達がうねうねと動いて中央にいるジゼルを差し上げたり、隠したりする、「フォルム」としてのダンサーの集団的な身体の面白さなど印象に残る場面がいくつもありました。
既に十分ここに書く文章としては長いのですが、久し振りに本気で「批評」を書いて見たくなる『ジゼル』でもありました。(書きたい事が沢山あります…)
ジゼル役では高橋絵理奈は心破れる表現が印象に残りましたし、2回目のジゼル、Crystal Costaは心の底からアルブレヒトを恋い慕い募る想いを断ち切られることが見える踊りでした。楽日のタマラ・ロホは圧倒的にその役を自分のものとして踊りました。前半の純度の高い幸福感を踊りきる事で、後半の悲劇を、そして裏切られてもなお許すことを選ぶ姿に説得力がありました。
Crystal Costaは以前香港バレエ団に所属されていたことを多くの観客が気付いていたようで(近くの席の方もプログラムで見つけて隣の人に指さしながら話していました)他のダンサーにもまして客席から暖かく迎えられていたように感じました。
タマラ・ロホが芸術監督に就任してから、攻めの姿勢が続くイングリッシュ・ナショナル・バレエ団ですが、この作品は看板の一つになったと言えそうです。来日公演で見られなかったのは本当に残念ですが、日本の興行関係者が来られたと関係者から聞きましたので、いつかは見られるのかもしれません。
<見た主な配役は下記の通り>
ジゼル:高橋絵理奈/アルブレヒト:James Steeter/ヒラリオン:猿橋賢/ミルタ:Sarah Kund
ジゼル:Crystall Costa/アルブレヒト:Aitor Arrieta/ヒラリオンErik Woolhouse/ミルタ:Isabelle Brouwers
ジゼル:Tamara Rojo/アルブレヒト:Isaac Herández/ヒラリオン:猿橋賢/ミルタ:Stina Quagebeur