1932年の世界初のコンクール、プログラム

1947年、コペンハーゲン王立劇場での最後のコンクールプログラム表紙

中には見た人の受賞の書き込みもあり、臨場感が感じられます

◆ 1 ◆ 世界初の国際振付コンクール開催

 

 

現在、日本ではバレエについて一般の雑誌やTVが取り上げる一番頻度の高いトピックスはコンクールの入賞です。
では、そのコンクールがいつから始まったのか、と聞かれると即答できる人はわずかなのではないでしょうか。

 

実は「初」の国際振付コンクールを開催したのはロルフ・ド・マレ、1932年7月2~4日の事でした。これは少なくとももう少し知られてもいいのではないか、とコンクールの話が出る度に私はかなしく思うのですけれど…。

 

ではそれまでなぜコンクールがなかったのか? それはバレエの成り立ちを考えると分かるのですが、バレエ・リュス登場までバレエは基本的に劇場付属のバレエ・カンパニーが基本でした。インディペンデントなプロフェッショナル・ダンサーはほとんどおらず、ましてや振付のコンクールなど誰も必要を感じていなかったからです。
マレがこのコンクールを立ち上げようと思った理由は最愛(と言っていいでしょう)の恋人ジャン・ボルランの米国で客死でした。彼の記念として次回紹介する国際バレエ・アーカイヴと共に構想したのでした。
コンクールの名前こそ「国際振付コンクール」とありますが、内情は振付に限ったものではなく、今のバレエ・コンクールのようなダンサーをメインにした賞も、美術・衣裳の賞も設定された大変視野の広いものでした。
また出場者たちは交通費こそ自費でしたが、宿泊、食事はコンクール主催者によって支払われるという条件の良いものでした。

 

評価基準も大変明確に下記のような6点とされました。1.振付、2. アンサンブルの踊り、3.個人の踊り、4.衣裳、5.音楽、6.バレエのアンサンブル。それぞれの配分は振付、20ポイント、アンサンブルの踊り、20ポイント、3.個人の踊り、15ポイント、バレエのアンサンブル、20ポイント、残りの25ポイントは審査員の個人の裁量というものでした。
この評価基準を見ても、コンクールが広い視線を保とうとしたこと、そして評価基準はあくまでもダンスであったこと、バレエという視点も明確だった事がわかります。

 

また、これは現在のダンス、バレエでしばしば話題になる「振付とは?」という問題とも深く関わると思うのですが、コンクールでは最低6人という規定がありました。現在振付コンクールをすると応募としてはかなりの割合を占める自分自身に振付けて踊るソロでは振付とみなさないという考えだったのでしょう。他者の身体に移せる動きというのは私も「振付」という概念の中で重要な要素なのではないかと感じています。
審査委員は全部で20名。とても長くなってしまうので一部をあげるにとどめますが、バレエ・シーンの重要人物が並ぶ顔ぶれを見ているだけでも色々と楽しい想像が広がります。
バレエ・リュスをパリに初めて紹介した興行主でシャンゼリゼ劇場を創設して破産したガブリエル・アストリュク、ドイツ表現主義舞踊で必ず出てくるルドルフ・フォン・ラバン、かつてロシアでディアギレフを『帝室劇場年鑑』の編集担当としてロシア帝室劇場に招き、ダルクローズに踊りを習って自ら踊り、1926年にパリに移住していたセルジュ・ヴォルコンスキー公爵、バレエ・リュスでも活躍した指揮者ウラジミール・ヴォルシュマン、画家フェルナン・レジェ、作曲家フロラン・シュミット、1930年に引退したパリ・オペラ座の今でいうエトワール(当時はプリマ・バレリーナという称号)だったカルロッタ・ザンベリ、バレエ・リュスにも参加、アンナ・パヴロワのパートナーとしても知られたボリショイ・バレエ団出身アレクサンドル・ヴォリーニンらがいました。ヴォリーニンの元からは『若者と死』で一躍名をあげたジャン・バビレやアンドレ・エグレフスキー、ジジ・ジャンメール、デヴィッド・リシーンといった人達が育っていますから、もう少し顧みられてもいい人物でもあります。
さて、コンクールですが、出場したのは7月2日7組、3日6組、4日6組の系19組、そして最終日の最後はガラ公演が行われました。作品はバレエ、今でいうコンテンポラリー・ダンス的な作品までが並びました。
賞金もなかなか豪華で金賞25000フラン、銀賞10000フラン。この他に「小さなダンサーたちのため」のコンクールも開催されています。4歳から12歳までのダンサー達に出場権がああり、1位3000フラン、2位1500フラン、3位750フランと子供相手にはなかなかの金額でした。

 

このコンクールは第二次世界大戦がなければそのままシャンゼリゼ劇場で開催が続いてパリのコンクールとして定着した可能性も否定できませんから、戦争は様々に文化を中断するのだと改めて思います。
1回目はシャンゼリゼ劇場、2回目は1945年にスウェーデンで11人の振付家が出場して開催、3回目は1947年にコペンハーゲンで25人の振付家による24作品が賞を競いました。この3回目は後に『令嬢ジュリー』の振付で知られることになるブルギット・クルベリも出場しており、受賞を有力視されていたのですが、上演時間の規定20分を超えたために受賞することはありませんでした。審査員の厳密さそしてマレの考えもあったようです。自身の国の作品をひきたてるよりその賞にふさわしい作品をというマレの意思を感じるエピソードです。

 

もっとも華々しく開幕した第1回目で金賞を受賞したのが、『緑のテーブル』です。日本のスターダンサーズ・バレエ団がレパートリーとして上演したのを見た方もいらっしゃるでしょう。今年もCOVID19 がなければ上演予定でした。(今後の再演を期待しましょう)

それにしても『緑のテーブル』は今でも踊り継がれる戦争を正面から扱った極めて珍しいバレエ作品ですが、それが世に出るきっかけとなったこの国際振付コンクールがこれほど無視されているのは不思議でしかありません。
ここを読んでくださった方々は是非覚えておいていただけたら幸いです。

 

次回は5月23日配信、マレが手掛けたもう一つの「初」をお届けします。

 

 

 

リンク:
動画はいずれも公益財団法人スターダンサーズ・バレエ団によるもの

COVID19禍の今だからこその『緑のテーブル』@ home/The Green Table at home
公開URL:https://youtu.be/PIZ53Imn55w

 

公演予告のページにも一部動画があります。
https://www.sdballet.com/company/c_archive/p2020/2003_dancespeaks/