◆ 1 ◆「櫻を見る會」に参加したマレ
ロルフ・ド・マレは生涯沢山の旅をしました。最初のヨーロッパ以外への長旅は1910年、マレが22歳の時、父に連れられて出かけたインドでした。この旅はマレにとって忘れられないものになりました。父ヘンリックが自らの50歳の誕生日を息子と迎える日程で計画したものでした。50歳の誕生日はナポリからエジプトのポートサイドに向けた船の中、シャンパンで祝われたそう。
豪華客船に汽車を乗り継ぐ旅は2カ月に及ぶもので、インドでは食後にインド舞踊を楽しんだことも分かっています。こうした体験が民族舞踊への関心を育んだのです。
翌1911年にはシャム国王のおとぎ話のような戴冠式に出席した足で初めて日本を訪れています。この時は外交使節の身分で、日本では日光や京都にあそび、横浜港から米国に向けて出港しています。
1917年は第一次世界大戦のさなかでしたが、彼らが立ち寄った米国ではメトロポリタン・オペラ・ハウスでの公演も行われていましたし、パーティーも通常通り開催されていました。この旅にはマレの当時の恋人で生涯の友となったニルス・フォン・ダルデルを伴っていましたが、日本へ渡る前にハヴァナですでに伝説的なダンサーだったアンナ・パヴロワの舞台を初めて見たこともわかっています。
1911、1917年に際しては、日本駐在中だったスウェーデン大使グスタフ・ヴァレンヴェルグに紹介を受けて、主に妻と娘が案内役を務めました。
1917年の滞在時はちょうど桜のシーズンだったこともあり、大使の紹介で「櫻を見る会」にも参加しています。
現在日本の政界を騒がせている「桜を見る会」と名前は同じですが、本来の形での開催で性質は全く違います。現在、票集めのための極めてゆがんだ形で使われている「櫻を見る会」は元々皇室主催で行われたもので、マレが参加した1917年は新宿御苑が会場で、目的も「国際親善」でした。ドレスコードも「フロック・コートにシルクハット着用、陸海軍は制服着用、」また「モーニング」は不可という興味深い記載が招待状に見られます。14:30集合、雨天は中止だけれど御苑の桜を見ることはできると招待状に書かれています。
今同じようには難しいでしょうけれど、桜には票集めよりは国際親善の方が似合いそうですね。
さて、桜も楽しんだ滞在を終えた1917年の滞在ではマレは5月に帰国しましたが、ニルス・フォン・ダルデルは何と日本画を学びたいと、更に5カ月も滞在し、夏は北海道に大使の家族の別荘に避暑に出かけたことも分かっています。日本ではほとんど知られていないニルス・フォン・ダルデルですが、スウェーデンの代表的な重要な画家です。
本格的に日本画を学び実践もしたとの事で掲載した写真も残っているのですが、その画家が誰なのかが未だに美術史の世界でも分からないそうです。これをご覧になって「○○ではないか」とピンときた方は是非教えていただけましたら幸いです。
その後マレが来日したのは1937年、これが彼にとっては最後の世界旅行ともなりました。
1936年にはジャン・コクトーが 来日もしていて案外この時期日本には1920年代の重要な人達の来日があるのです。(ちなみにコクトーも藤田嗣治と日本で再会しています。藤田のネットワークも感じさせますね。)
マレはすでにA.I.D.を立ち上げた後でしたので、積極的に舞台芸術の関係者に会ったり、資料を持ち帰ったりしています。文楽や歌舞伎を持ち込んだ機材で撮影をしており、今でも見ることができます。詳細が分かっていない部分もあり、専門家の調査が待たれます。
この滞在は国際文化振興会(現在の国際交流基金のようです)がアレンジを手伝っています。そして、1939年5月から6月にかけてA.I.D.では「日本におけるダンス」という展覧会が開催され、機関誌A.I.D.でも日本特集号が発行されました。
日本の舞踊への彼の視線は民族舞踊への視線でもありましたが、マレの極めて現代的なところはそれが西欧的ヒエラルキーに基づく「民族舞踊」ではなかった点です。バレエ・スエドワの活動からもA.I.D.の活動からもそれが見えてきます。
次回は6月6日更新。民族舞踊を追いかけたマレの姿です。