◆ 1 ◆ 珈琲農園とケータリング
前回マレの「貴族」らしい生活について少しだけ触れましたが、彼は自国の自らの広大な領地をもっていただけではなく、他国にも拠点を作りました。貴族としての常として、彼はスウェーデン国内にもいくつかの拠点をもっていましたし、海外でも同様でした。彼が育ったかつての祖母の家は現在ハッリウィル美術館として公開されていますが、ここだけが彼の拠点ではありませんでした。パリではサンジェルマンの拠点、そしてバレエ・スエドワの拠点としてシャンゼリゼ劇場を7年の契約で借りあげたのはすでにご紹介したとおりです。
1931年からはケニアのコーヒー園を所有していました。ナイロビから8キロほど北の地で珈琲の生育が良い場所だったそうです。
映画『インドシナ』(1992年)ではゴム農園を経営する女性の一大叙事詩のような物語をカトリーヌ・ドヌーブが演じていました。私にとっては忘れられない映画の一つでありつづけていますが、あの中で描かれていたような農園経営を欧州の人達が行っていた時代でもありました。時代も1930年代でほぼ同じ頃です。
マレがコーヒー園を購入したのは、すでに近くには友人達が農園を経営していたことも決め手になったようです。農園近くにマレが建てたのは、白亜の宮殿というにふさわしいコロニアルなたたずまいの邸宅でした。これも貴族の常ですが、家の管理人を雇い、思い立って行っても生活ができる環境を整えていました。
今では否定的にみられる事も多い植民地、プランテーションですが、西欧の生活そのままを異国で送ろうとする姿は今の私たちからみると「おとぎ話」みたいなエピソードも沢山。どんなところへ行っても白いスーツ、というコロニアル・ファッションもあの時代ならのものと言えるでしょう。
マレはこのA.I.D.の活動が活発な時代には長期滞在することはできませんでしたが、第二次世界大戦を経たあとは状況が変わりました。
琲農園は戦争で荒廃し、別荘も荒らされ無残な姿となってしまいました。
パリのA.I.D.の活動も縮小を余儀なくされ、自身のパリの拠点も縮小し、コレクションの行方について考え始めていました。
ですが、マレがダンスへの情熱や活動をしていなかったわけではなく、相変わらずひっきりなしに資料を見にA.I.D.への訪れがあり、またマレには講演の依頼があり世界を飛び回っていました。彼は美術から活動を始めたこともあり、「なんで美術史では大学教授になれるのに、舞踊史にはないんだ」と疑問に思いその下地作りという意味でも自身の講演は積極的に受けていました。現在でも日本にはありませんね…あの世のマレと話してみたいものです。
戦後、珈琲農園は手放したものの、別荘は修復し、1950年には6カ月もその地で過ごしていたほどで、ケニアが大好きだったのです。
思い入れのある場所だったようですが、1956年には手放すことになりました。ケニアで起こっていた英国からの民族独立運動「マウ・マウ団」の活動が激しくなり、近くの人が殺害されるなど不安定な情勢になり、外国人としてそこに住んでいるだけで命の危険を感じる場所になってしまったからでした。
そんなケニアでのエピソードですが、最初に読んだとき、私の翻訳ミスかと思うようなこともしています。何と、スウェーデン、ストックホルムからケータリングをしているのです。
戦争で荒廃した家を修復した後、1949年に行われたマレの家でのパーティーの際しての事でした。アフリカまでの世界初の海を渡るケータリングだったでしょう。
これはスカンジナビア航空(SAS)がスウェーデンとケニアの初の直行便就航を宣伝するために、マレが考え提案し、実現させた事でした。日本の三越、ロンドンのハロッズのような位置付けのスウェーデンの最も有名な高級デパート「ノーディスカ・カンパニー(NK)」からのスモーガスボードなどの空輸はいい宣伝になると持ち掛けたのです。しかも、デパートの宣伝になるのだからとかなりのディスカウントをさせているのも面白い点です。
水曜日にスウェーデンを飛び立ったSASは予定通りに荷物を運び、マレの家で金曜日のパーティーに振舞われたのです。これはNKデパートにとってもモスクワのスウェーデン大使館でのパーティーへのケータリングをしのぐ最長の距離を運んだケータリングになりました。
スウェーデン、ストックホルムを訪れた時、目抜き通りにある一番大きなデパートがこちらでデザインが魅力的な品々、そして中のカフェの小エビが山盛りに載ったオープンサンドも美味しいデパートでした。
デパートのサイトもご参考までに:
今回は少し話があちらこちらに行きましたが、次回もマレのまさかの世界での姿をお伝えします。
6月19日更新です。